賢治の福島

新花巻→かみのやま温泉 去年の5月の連休、花巻に遊びに来ている期間に、ちょっと用事で山形県の上山市に行かなければならないことがありました。
 最近は、出かける際に時刻表のページを繰ってあれこれシミュレーションをしなくても、ある駅からある駅へ最短時間で行けるJR列車を一瞬にして見つけてくれる検索サービスが、いろいろあります。そこでこの時も、「花巻駅」または「新花巻駅」から、「かみのやま温泉駅」までの列車を検索したところ、新花巻から東北新幹線で福島まで南下して、福島から山形新幹線でかみのやま温泉へ行く、という経路が最も速いことがわかりました。

 単純に距離を考えると、新花巻→福島→かみのやま温泉、という経路はいったん大きく南に行きすぎてしまう結構な遠回りで、その道のりは302.2kmあります。これに比べて、たとえば新花巻→仙台→(仙山線経由)山形→かみのやま温泉、だと223.1km、新花巻→北上→(北上線経由)横手→かみのやま温泉、だと226.9kmで、後二者の方が明らかに近道なのです。
 それでも、時間的には福島をまわった方が速くなるのは、在来線を使わずに東北新幹線と山形新幹線を乗り継ぐおかげなんですね。(上の図で、赤線は新幹線、青線は在来線です。)

 というわけで、去年私は岩手県から福島をまわって山形県へ行ったのですが、同じようなルートを、1916年(大正5年)に宮澤賢治もたどっていたのです。
 それは、盛岡高等農林学校1年の10月4日、山形で開催されていた「奥羽連合共進会」という一種の地方博覧会を見学するため、団体で盛岡から列車に乗り、福島を経由して山形に行った時のことです。会には東北各県の特産物などが出品されていたので、農業の勉強にも役立つという趣旨だったのでしょう。
 この時、賢治たちが盛岡から山形へ行くのに福島をまわった理由は、もちろん新幹線が云々ということではありません。彼らがそうせざるをえなかったのは、北上と横手を結ぶ北上線、仙台と山形を結ぶ仙山線など、奥羽山脈を越えて東西をつなぐいわゆる「肋骨線」が、当時はまだ開通していなかったからです。すなわち、北上線の前身である横黒線が全通したのは1924年(大正13年)、仙山線が全通したのは1937年(昭和12年)のことでした。
 ですから、1916年(大正5年)の時点では、盛岡から山形へ行くためには福島を経由するしかなかったわけですね。

 しかしそのまわり道のおかげで、ここに賢治と福島との、一度きりの出会いが生まれました。
 もちろん、賢治は上京のたびに東北本線で福島を通過していますし、東北砕石工場技師時代には、宮城県までは何度も営業で足を運んでいますが、彼が福島の土を実際に踏みしめたのは、この「1916年10月4日」という1回だけだったのではないかと思います。
 そして、この見学旅行の折りに、賢治はちゃんと短歌も残してくれています。下記は、「歌稿〔A〕」から。

   仙台
357 綿雲の幾重たゝめるはてにしてほつとはれたるひときれの天

   福島
358 たゞしばし群とはなれて阿武隈の岸にきたればこほろぎなけり
359 水銀のあぶくま河にこのひたひぬらさんとしてひとり来りぬ

   山形
360 雲たてる蔵王の上につくねんと白き日輪かゝる朝なり
361 銀の雲焼ぐひの柵われはこれこゝろみだれし旅のわかもの

   福島
362 しのぶやまはなれて行ける汽鑵車のゆげのなかにてうちゆらぐかな

 358、359、362の三首が「福島」と題されていて、前二首は阿武隈川を、三首目は信夫山を詠んでいます。おそらくここでも賢治の短歌の順序は時間系列に沿っているでしょうから、358、359は往路の福島、362は復路の福島なのでしょう。
 短歌の内容から推測すると、往路の賢治は汽車を降りて阿武隈川の水辺まで行ったようですが、復路の362は、車窓からあるいは駅プラットフォームからの眺めのように感じられます。

 団体旅行の最中に、賢治が「群とはなれて」「ひとり来りぬ」という行動をとったのは、何か心に思うところがあったのでしょうか。山形における361にも、「われはこれこゝろみだれし旅のわかもの」という言葉が出てきます。何が彼の心を乱していたのでしょうか。
 359では、賢治が阿武隈川のほとりに来たのは、「ひたひぬらさんと」いう目的のためだったことが示されていますが、水で額を濡らそうというのは、これも何か額が熱くなるほど、彼が悩んだり考えこんだりしていたのではないかと思わせます。
 ちなみに、賢治の他の作品で「ひたひをぬらさん」というモチーフが登場するのは、文語詩「水部の線」(「文語詩未定稿」)の下書稿第一形態です。これは推敲の途中では「おもかげと北上川」という題名を付けられていた段階もありますが、初期形は下記のようなものでした。

並樹の松を急ぎ来て
きみがおもかげ うかべんと
まなこつむれば
まひる蝋紙に刻みしゐし
北上川の 水線ぞ
青々としてひかるなれ

このこもり沼の夜の水に
あつきひたひをぬらさんと
夜草をふめば 幾すじの
北上川の水線は
火花となりて青々と散る

 この「水部の線」という文語詩は、賢治が日詰あたりへ招かれて講演を行った後の帰り道の情景のようで、「こもり沼」とは、南日詰にある「五郎沼」と考えられています。そしてこの作品で「きみがおもかげ」と表現されている「きみ」とは、日詰出身の看護婦で、賢治の初恋の人と言われている高橋ミネさんのことではないかと推測されるのです(「花巻(3)~日詰」参照)。
 つまり、この時に賢治が「あつきひたひをぬらさん」としたのは、昔の恋心を思い出し、それを何とかして鎮めようとしてとった行動だったと思われます。

 話が横道にそれてしまいましたが、阿武隈川に戻ります。言いたかったことは、上に見るような後の賢治の行動を思うと、やはりこの時「ひたひぬらさん」とした20歳の賢治にも、何かそういう「熱い思い」があったのだろうかと、私としては考えてもみたくなるということです。
 ちなみに、「ユリとサソリ」という記事に書いたように、「「文語詩篇」ノート」の「農林第二年 第一学期」と記された項(すなわち1916年の春~夏に相当)には、“Zweite Liebe”(=二度目の恋)という言葉が書かれているのです。今回取り上げている福島・山形行の数ヵ月前のことですね。この“Zweite Liebe”と、「ひたひぬらさん」や「こゝろみだれし」とが関係あるのかどうかはわかりませんが、気になるところではあります。

◇          ◇

 さて、ここからは先月の連休の際に福島へ行った時のことです。2008年11月に、上記の358の短歌が書かれた説明板が、賢治が立ち寄ったと思われるあたりの阿武隈川畔にできたと聞いて、私はそれを見に行ってきました。
 JR福島駅から南東の方向に約1.3km、福島県庁の南側に「御倉邸」という、その昔に日本銀行福島支店長の公邸として使われていた屋敷跡があります(下写真)。

御倉邸

 この玄関前を通りすぎて右の方に行ったところに、下のようなプレートがありました。

福島の賢治歌碑

 板は「福島と宮澤賢治」と題されて、短歌とともに阿武隈川やこおろぎのイラストも描かれています。説明文には、次のように書かれていました。

 岩手県花巻市出身、『風の又三郎』『よだかの星』『銀河鉄道の夜』などの童話で有名な詩人・文学者 宮澤賢治が大正五年(一九一六年)十月にこの福島市へ来訪し、短歌を5首ほど創作しておりました。(全集にも記録されています。)
 宮澤賢治は、山形市で開催された「奥羽連合共進会」に見学に行くとき盛岡から福島駅で途中下車して、阿武隈川を見るために歩いて行き、そのときの印象を詠ったひとつがこの歌です。

 そして、「詠われた場所はこの隈畔周辺の様です。」とも記されています。「隈畔(わいはん)」というのは、もとは阿武隈川の河畔という一般的な意味だったのでしょうが、現在では県庁の裏手を中心とした阿武隈川左岸を指すのだそうです。
 プレートの位置は、下の地図のマーカーのところ。この地図は、ドラッグ&ドロップによる移動や左上の[+][-]ボタンによる縮尺変更ができます。

 そしてこの場所からは、阿武隈河畔に降りられるようになっていました。あいにく雨が降ってきましたが、川上の方を眺めるとこんな感じでした。

隈畔から川上を眺める

 ところで、『【新】校本全集』第十六巻(下)の「補遺・伝記資料篇」p.220には、この時に賢治たちが乗った可能性のある列車として、下の二通りが掲載されています。

(A)盛岡発 13:05 (東北本線上り202列車)
   仙台発 18:15
   福島着 20:42
   |  福島で4時間13分待ち合わせ
   福島発 00:55 (奥羽線下り701列車)
   山形着 04:36

(B)盛岡発 04:28 (東北本線上り204急行)
   仙台発 08:25
   福島着 10:21
   |  福島で59分待ち合わせ
   福島発 11:20 (奥羽線下り七〇一列車)
   山形着 16:00

 (A)の場合は、福島に着いたのは夜で、待ち合わせ時間は4時間13分もあります。一方、(B)の場合は盛岡を早朝に発って福島には午前中に着きますが、待ち合わせ時間は59分です。
 福島駅からこのあたりの「隈畔」までは往復で約2.6kmなので、(B)の59分でも行って帰ってくることは可能です。しかし、知った場所ならともかく、見知らぬ土地で団体から離れて一人で出かけるには、ちょっと不安も感じられる持ち時間です。それに、待ち合わせ時間が59分ならば、学校としても学生を自由行動にはしなかったのではないかとも思ったりします。
 (A)ならば、賢治が阿武隈川のほとりに出たのは夜だったことになります。そして、この二首の短歌は、夜の情景と考えた方が何となくしっくりくる感じもします。

358 たゞしばし群とはなれて阿武隈の岸にきたればこほろぎなけり
359 水銀のあぶくま河にこのひたひぬらさんとしてひとり来りぬ

 賢治としては初めてまぢかに見る阿武隈川で、上写真のように向こう岸には「弁天山」なども見えるのですが、短歌二首にはあたりの風景は何も描かれていません。そのかわりに、「こほろぎなけり」という聴覚的描写のみがあります。359の「水銀のあぶくま河」というのが、唯一の視覚と関係した描写ですが、川面を「水銀」と形容するのは、暗闇の中の景色と考えることもできます。
 というわけで、私としてはこの時に賢治は、秋の夜の阿武隈川の岸に来て、暗い川岸で鳴くこおろぎの声を聴いたのではないか、と想像します。

 なぜこの時、賢治は一人で阿武隈川の岸にやってきたのか・・・。それは上にも考えてみたように、何かの懊悩をまぎらせようと、「ひたひぬらさんとして」福島にとっては「母なる川」であるこの水辺に来たのかもしれません。
 彼が故郷花巻で、心が苦しい夜には(たとえば「薤露青」の時のように)、やはり「母なる川」である北上川の岸に来て、一人ずっと川面を眺めていたように・・・。