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花巻農学校精神歌

1.歌曲について

 1921年12月に農学校の教諭になった賢治は、翌年の2月に下記のような歌詞を作り、知人に依頼して曲も付けました。

 当時の校長はこの歌にいたく感動して、校歌にしたいと賢治に要請しましたが、賢治は「そういうつもりで作ったものでないから」と、何度頼まれても辞退したということです。
 しかしその後、この歌は「精神歌」と呼ばれて農学校の生徒や職員に愛されつづけ、何か学校の行事があるたびに、全員で歌うならわしとなりました。

 賢治が就職した頃の農学校の校舎は、萱葺きで平屋の粗末なもので、隣の花巻女学校の生徒からも「桑っこ大学」と揶揄される小さな学校だったということです。そのような学校に対して下の歌詞は、取り合わせの不釣り合いが痛快なほどに、格調高く立派です。きっと賢治は、「ボロは着てても心は錦」とでもいうように、貧しい教え子たちの自尊心のよりどころとなるような、「精神の歌」を作りたかったのだろうと思います。
 その賢治の願いはおそらく生徒にも通じたのではないでしょうか。当時の同僚だった堀籠文之進は、後に次のように語っています。

 油がのったとでも言うのでしょうか、宮沢さんは応援歌、行進歌、農民歌、剣舞の歌など、どんどん作曲して生徒に歌わせましたので、学校は、すっかり変わってしまっておどろくほど生き生きとなってきました。生徒はよろこんで精神歌や応援歌を歌いました。(森荘已池『宮沢賢治の肖像』所収「或る対話」より)

 教師として賢治が何をやろうとしていたかということの一面が、ここに表われていると思います。

 賢治がこの歌詞を作ったのは、1922年の2月ということですから、ちょうど『春と修羅』を書きはじめた頃にあたります。賢治ならではの独特の語彙がちりばめられていて、当時の人々にとっては、ほんとに不思議な歌と感じられたのではないかと思います。
 歌詞は、四節とも「日ハ君臨シ」という句で始まり、「カガヤキ」「ヒカリ」などの言葉ともあいまって、まばゆいような全体の色調をつくっています。 やはりこの年の春に書かれた、「イーハトーボ農学校の春」のなかの「太陽マヂックのうた」に通じるような、「太陽礼賛」の雰囲気が流れています。

 この曲の作曲者である川村悟郎という人は、当時盛岡高等農林学校の学生でした。賢治が宿直の晩など、よく二人で夜遅くまで、 学校のベビーオルガンで曲の手直しをしていたということを、堀籠氏は書き残しています。

 歌詞は現在、花巻農学校の後身にあたる花巻農業高校の一角に、石碑となって建てられています。また、花巻農学校の跡地の「ぎんどろ公園」にも、歌詞の一節を記した木塔があります。

2.演奏

 実は、この曲には2種類の楽譜が伝えられていて、同じ旋律が一方では8分の6拍子の舟歌調で、もう一方では4分の4拍子の行進曲調で、記譜されています。前者は沢里武治の記憶によるもので、後者は藤原嘉藤治の採譜によるものだということで、どちらが「正調」なのかは不明ですが、生前の賢治のすぐ傍におり、音楽にも造詣の深かった二人が、別々のバージョンを伝えているということは、時と場合によって両方が歌われていたということかもしれません。
 現代においては、毎年9月21日の「賢治祭」の最後や9月22日の宮沢賢治学会イーハトーブセンター懇親会では8分の6拍子で(沢里版)、やはり9月のその前後に行われる花巻農業高校の「賢治先生を偲ぶ会」では4分の4拍子で(藤原版)、それぞれ歌われるのが通例です。

 『新校本全集』にも、2種類の楽譜が収められているのですが、ここでは「8分の6拍子版」で演奏し、その楽譜を掲載しています。
 下記演奏の、歌唱は‘VOCALOID’の Meiko で、伴奏はフォーク調のアコースティックギターを基調として、作成してみました。

3.歌詞

(一)日ハ君臨シ カガヤキハ
   白金ノアメ ソソギタリ
   ワレラハ黒キ ツチニ俯シ
   マコトノクサノ タネマケリ

(二)日ハ君臨シ 穹窿ニ
   ミナギリワタス 青ビカリ
   ヒカリノアセヲ 感ズレバ
   気圏ノキハミ 隈モナシ

(三)日ハ君臨シ 玻璃ノマド
   清澄ニシテ 寂カナリ
   サアレマコトヲ 索メテハ
   白堊ノ霧モ アビヌベシ

(四)日ハ君臨シ カガヤキノ
   太陽系ハ マヒルナリ
   ケハシキタビノ ナカニシテ
   ワレラヒカリノ ミチヲフム

4.楽譜

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(楽譜は『新校本宮澤賢治全集』第6巻本文篇p.381より)