保阪嘉内が作詞・作曲した、「藤井青年団々歌」の演奏ファイル(MP3)を作ってみました。
1919年(大正8年)9月1日付けの嘉内のノートに、「藤井青年團々歌」と題された歌詞が書きとめられており、歌はこの頃に作られたものと思われます。
1918年(大正7年)3月に盛岡高等農林学校から除名処分を受けた嘉内は、いったんは札幌または駒場の農科大学を目ざして東京で受験勉強を開始しますが、さらに6月には、母の死という度重なる不幸に見舞われます。故郷に残された弟妹、家の田畑のことをことを思うと勉強にも身が入らず、結局受験はあきらめて、故郷に帰って農業に打ち込む決心を固めました。
帰郷した嘉内は、村の青年団の活動にも熱心に取り組み、1919年(大正8年)夏、文部省所管の青年団中央部が行う「青年団指導者講習」の受講者として山梨県から一人だけ選ばれ、東京で講習を受けています(『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』より)。
おそらくその受講を終えて帰郷してまもなく、嘉内は上のノートに「藤井青年團々歌」を書いたのでしょう。青年たちの前途へ向けた、希望と理想が謳われています。
それでは、演奏をお聴き下さい。歌声は VOCALOID で、ソプラノが初音ミク、アルトが巡音ルカ、テナーとバスが Kaito という面々です。
藤井青年團々歌
理想の光麗らかに
エデンの園の朝ぼらけ
輝き昇る天津陽に
牧の角笛なり渡る若き心の感激に
溷濁の世の濤を伏せ
魍魎羅刹もひしがんと
つどひ立ちたり我健児緋の鎧して益荒雄が
忠血義血流しけん
新府城趾の夏艸は
昔の夢にむせぶらん紫薫る不盡の峯
赤き血潮は高鳴るを
蒼穹久遠の彼方まで
つどひ進みね我健児
【編曲ノート】
- 歌詞一番の4行目に「牧の角笛なり渡る」とあることから、曲の前奏は、遠くのホルン三重奏で始めることとした。嘉内の故郷・駒井村は、日本・南アルプスの麓にあるが、彼がここに「角笛」を登場させたことの背景には、ヨーロッパ・アルプスの「アルペン・ホルン」への連想があったかもしれない。一番の歌詞は農村の朝を描いていることから、冒頭の響きも夜明けをイメージしている。
- 歌詞の三番は歴史をはるかさかのぼり、戦国時代も終わり頃、旧駒井村の西に武田勝頼が築いた新府城と、ここを最後に滅亡した甲斐武田一族の悲劇を歌っている。「夏艸」や「夢」という語は、言うまでもなく松尾芭蕉の「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」を下敷きにしているが、この句が奥州平泉において詠まれたことにおいて、はからずも山梨と岩手の不思議なつながりが生まれている。
今回の編曲においては、ここでは「戦」を象徴する軍楽ラッパを響かせた。 - 韮崎市民合唱団による合唱はニ長調であったが、この歌が一種の「田園歌(Pastorale)」でもあるという趣旨を汲んで、今回はヘ長調にしてみた。ホルンの響きとこの調との相性にもよる。
- (1)嘉内自身が記した上のノート、(2)「銀河の誓い in 韮崎・アザリアの友人たち」(2009.10.11)の記念誌「花園農村の理想を掲げて」のp.16に掲載されている歌詞、(3)その催しの際に「韮崎市民合唱団」が歌った歌詞、の三つの間には、若干の相違がある。なぜこのような異同が生まれたのかは不明だが、歌い継がれるうちに知らずと変化していったのかもしれない。
- 今回の編曲では、(1)嘉内のノートに記された詞を用いた。
なお、下記に三種のテキストの相違点を挙げておく。
嘉内ノート |
記念誌 |
合唱団歌唱 | |
1 | 輝き昇る天津陽に | 輝きわたる天つ日に | 同左 |
2 | 魍魎羅刹もひしがんと | 蛟龍羅刹もひしがんと | 同左 |
3 | 緋の鎧して益荒雄が | 同左 | 緋の鎧してもののふが |
4 | 赤き血潮は高鳴るを | 若き血潮は高鳴るを | 同左 |
4 | 蒼穹久遠の彼方まで | 悠久久遠の彼方まで | 同左 |
4 | つどひ進みね我健児 | つどひ進みぬ我健児 | つどひ進まん我健児 |
- 上記最後の「つどひ進みね」に関して言えば、この「ね」は、「希求・誂え」の意を表す終助詞と思われ、活用語の未然形を承けるものであるから、本来は「つどひ進まね」が文法的には正しいと思われる。
一方、「記念誌」のように「つどひ進みぬ」では、「ぬ」は動作等の完了を表す助動詞であるから、「(すでに)進んだ」ということで、歌詞の意味としておかしくなる。
合唱団が歌った「つどひ進まん」は、「つどひ進まね」とおおむね同じ意味になる。 - 三種の歌詞のうち、私が個人的に好きなのは、オリジナルの「嘉内ノート」である。一番では、太陽が「輝き昇る」方が、動きがあってまさに「夜明け」を表しているし、他の版の歌詞で「輝きわたる」と「鳴りわたる」が連続して重複するよりも、好ましく感じられる。
また四番では、「嘉内ノート」における「紫薫る」「赤き血潮」「蒼穹久遠」という、行頭の紫・赤・蒼という三色の対照が鮮やかである。
signaless
hamagakiさま、素敵な「藤井青年団々歌」ができましたね。お疲れ様でした。
嘉内の熱い心が伝わってくるようです。イントロが特に素晴らしいと感じました。ほんとうに美しい夜明けです。私にもなぜ歌詞が変化しているのかわかりませんが、誤植や間違いのような気がします。hamagakiさまのおっしゃるように、「嘉内ノート」の歌詞が一番いいですね。
azalea
賢治の作品が手入れによりさまざまな変遷を経ているように、嘉内の作品にもテキストに変遷のあるものがある・・・ということと理解していただければよろしいかと思います。
なお、記念誌のテキストにはsignalessさんのコメントにもありますように誤植があります。
hamagaki
コメントをありがとうございます。
> signaless 様
お気に召していただき、光栄です。嘉内や仲間の青年たちがその昔に歌っていたであろう素朴さとは、ちょっと違ってしまったかもしれませんが、まあこれは私の趣味としてお許し下さい。いろいろやってみたくなってしまうのです。
しかしこの歌そのものは、ほんとうに嘉内の熱い心が流れている歌だと思います。
> azalea 様
直々にコメントを、ありがとうございます。
> 賢治の作品が手入れによりさまざまな変遷を経ているように、
> 嘉内の作品にもテキストに変遷のあるものがある
ということは、この歌詞の変化は、嘉内が意識的に推敲した結果なのでしょうか。
それにしては、上にも書きましたように、最初に「ノート」に記した形の方が、その後の形よりも明らかに「よい詞」と感じられるのが不思議です(賢治の手入れの場合も、ごく一部にはそういう例もなくはありませんが)。
上の記事中に書いた二点もそうですし、「蒼穹久遠の彼方」が「悠久久遠の彼方」と変わっている点も、私には前者の方がよかったと思えてなりません。「久」の字が二つ続いてしまうという形式的なことはともかく、「蒼穹の彼方」だったら空間的な彼方であるのに対して、「悠久の彼方」では時間的な(それもどちらかというと過去の)彼方になってしまって、そちらへ向かって「集い進もう」というのでは、意味として変な感じになってしまいます。
というようなことから私としては、このような変化は賢治の「手入れ」のような作者の意識的な作業の結果ではなくて、いろいろな人によって歌い継がれていくうちに、無意識的に変わっていった結果なのかと思ってしまっていました。
ご教示に、感謝申し上げます。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
azalea
hamagaki様
先のコメントが大雑把すぎたためか少し誤解して受け取られたようですので、簡単に補足させていただきます。
ノートに書かれたものだからといって、それを下書きと見て変遷の出発点に置いてしまうと、hamagaki様が疑問を抱かれたように話がおかしくなってしまいます。
記念誌掲載の歌詞は罫紙に嘉内の手で書かれたものですが、それが現在確認できる最初の形態だと思います。
そこに一旦手を入れた上で、さらに練り直して(おそらく時間を置いてから)清書したものがノートの歌詞、一方で罫紙の歌詞が歌い継がれていく間に変わっていったものが合唱の歌詞・・・というのが現時点での私の見方です。
十分な検証を経ていませんので推測の域は出ませんが、まずは参考までに申し添えさせていただきました。
hamagaki
azalea 様、ありがとうございます。
ご教示によって、私の疑問が氷解しました。上の「ノート」以前に、嘉内自身が書いた「罫紙上の形態」という段階があるのですね。そこから、一方では「ノート」へ、もう一方では実際の歌唱へ、という二方向への推移があるということであれば、内容的にも了解できます。
ただ、嘉内自身が1919年の時点で、よりすぐれた(と私は思う)手入れ形を「ノート」上に作成しながら、なぜこの形態が実際の歌唱に生かされなかったのか、というのは不思議ですが。
それにしても、すでに前のコメントでご指摘いただいたとおり、嘉内の作品にも複数段階の草稿が存在するのですね。
かくなる上は、『校本保阪嘉内全集』の出現を期待します。どうかよろしくお願い申し上げます(笑)。