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「にない堂」父子参詣説(4)

 東京の「宮沢賢治研究会」の皆さんとご一緒に、比叡山ツアー「夢の中なる碧孔雀」に参加してから、もう一年あまりがたちました。
 今や、まさに夢の中のような美しい記憶となって心の底に眠っていた延暦寺の堂宇だったのですが、その延暦寺で1996年10月に行われた「父子参詣七十五周年記念行事」の際の「特別講話」の録音テープが、つい数日前に私のもとに送られてきました。

 送って下さったのは「関西宮沢賢治の会」会長の深田稔さんで、私が上記のツアーを契機に、「賢治父子は本当に延暦寺の「にない堂」に参詣したのか?」という疑問にとりつかれて、深田さんにも資料ついてお尋ねしたりしていたものですから、それをずっと気にかけて下さって いたのです。当時の録音テープを持っておられた方のご好意で、このたび貴重な記録を届けて下さいました。

 1996年は賢治生誕百年にあたっていましたが、家出上京した賢治と父政次郎氏による比叡登山や関西旅行から75周年にもあたり、延暦寺や「関西宮沢賢治の会」は、「父子参詣七十五周年記念行事」を行いました。この折に、「根本中堂」歌碑の横に「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」と題した銘板が設置されたのですが、くしくもこの銘板の記述の中に、

最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。

という箇所があって、これが私の疑問の種となっていたのです。
 この銘板の文章を作成したのが、「七十五周年記念行事」の際に「特別講話」をされた小林隆彰・延暦寺執行(当時)で、この方のお話を聴けば、賢治父子の「にない堂」参詣の史料的根拠について、何かわかるかもしれません。

 ということで、今日は時間をかけて、その小林隆彰師の「特別講話」のテープを聴いてみたのですが、問題の「にない堂参詣」に関連した部分は、以下のとおりでした。

(前略)
 まあ皆さん方は、バスで来られたり車で来られたりしますから、娑婆と仏界は全く変わりません。すうっと行って降りたら、そこにお寺があるわけですから、ここにはもう何の感激…とは申しませんけど、あまり深い感激は起こらない。ところが、(数語不明)全く違うんですね。そういうところで来られて、賢治さんはおそらく、根本中堂の不滅の燈明を見られたんでしょう。そこにその、「ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまへ」という、非常にその、感激的な、意味の深い歌ができたんじゃないかと思うわけですけれども。
 ただ、そこでですねぇ、その、どこまで来られたか、歩かれたかという。歌はずうっとまあ一連の歌がありますから、この歌をずっと見てみますと、おそらく、根本中堂から、大講堂へ行かれて、それは一つのコースなんですよ、大講堂へ行かれましてねぇ、それから、いま阿弥陀堂というのはあれはありませんでしたから、あそこのその下のところを通って、西塔の伝教大師の御廟がある、そこを通って、釈迦堂へ行きます。釈迦堂ですね。釈迦堂を通って、それからずっと峰道というところを通るんです。峰道。峰道五十丁というのがあるんです。それが、京都と、それから大津滋賀県の真ん中を通る。
 まあよく、(数語不明)中国の善導がですね、浄土へ仏のところへ行くのに、右には、火の海、火の海には、瞋恚の炎と言いますけれども、人間が怒る心、それから左は、その水の谷ですから、貪慾の洪水と、人間の欲と。人間の限りない欲と、それがまあ琵琶湖の水に喩える。京都の火は、瞋恚の炎と、怒りの心ですね。そういうのを説いている。その真ん中に、中枢の道がある。その道を、それが白道である。それをどんどん進んで行ったところに、(数語不明)がある。ということを、まあおっしゃっている。それはあの、善導がおっしゃった、(数語不明)そこを通っていく。
 そこを通られたようなんですね。そうしますとね、ちょうど東塔が見えるわけですよ。根本中堂とか大講堂というのが見えるわけです。そうすると、それも夕方になったんじゃないかと思うんですがね。何となく灯りが見える。法要の時ですから、ずっと灯りがついていたんです。まあもちろん、あの、当時電気はですね、引いておりません。ま、少ししかないわけです。まだまだ。でそんなことですから、それを通って、下りたんだろう、ということが、この、歌に「暮れそめぬふりさけ見ればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり」という、これはおそらくそういう時に詠んだんじゃないか。それからまた下がってですね、琵琶湖の方に下がって来たのではないか。
 その時に、西塔へ行きますと、念仏を申す「にない堂」というのがあるんです。これは、常行三昧堂と申しまして、90日間毎日念仏を唱えるということになっています。そういうところも通られたんではないか。もう当然、賢治さんですから、伝教大師の御一書も読んでおられたでしょうし、いろいろまあ勉強もなさっていたでしょうが、実際に比叡山というところはどうも、法華経の山であるにもかかわらず、盛んに念仏を唱えていると。これは不思議な現象ではないかという風に、まあ思われる。そこでまあ今日は、あまり時間がそんなにないですが、あのう、「朝題目、夕念仏」ということについて、お話をしてみます。
(後略)

 つまりこのお話は、賢治が延暦寺で詠んだ短歌

暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり (786)

をもとに、その場所を推測するというものだったわけです。西塔の釈迦堂から横川に向かう「峰道」という道があって、そこからは東塔の根本中堂や大講堂が見えるので、上の短歌はその「峰道」を歩いていた賢治が、大講堂の方を振り返った時のものではないか、というのです。
 これはまあ結局、賢治父子が「にない堂」に参詣したという根拠を述べられたわけではなくて、もし「にない堂」に参詣していたとすれば、上記の短歌が作られた場所の候補地がある、という話だったわけです。

 ただ、賢治父子の下山ルートに関しては、政次郎氏から直接話を聴いた三氏による記述を検討してみた結果でも、「白川道」を下ったのであろうことは、かなり確実だと私は思います。小林隆彰師の言われるように「峰道」から八瀬秋元町の方へ降りる道もありますが(黒谷道、北谷道)、降りたところは白川道を降りた場合より7kmほど北になり、京都市内へ行くには非常に遠回りになってしまいます。この日の父子は、日も暮れてかなり急いで京都市街に下りようとしていたと思われますので、あえてこんな遠回りをするとは考えにくいのです。

 私としては、「786」の短歌は、大講堂から無動寺谷へ向かう途中、あるいは大乗院に参詣してから無動寺道を下山している時に詠んだものかと思っていました。しかし、そのあたりで実際に大講堂の「灯」が見える場所があるのか、いつか調べてみなければなりませんね。

 というわけで、私としてはまだ現時点でも、「賢治父子は「にない堂」には参詣しなかった」という考えの方を、強く抱いています。
 その根拠は以前にも書いたように、小倉豊文氏が政次郎氏の死後に書いた文章(『比叡山』1957年12月号)に、「父子同行二人の巡礼は講堂から戒坦院に及ばず、西塔や横川、四明嶽にも至らずして下山を急ぎ…」と記しているからです。小倉氏としては、父子が「にない堂」のある西塔に行かなかったという認識を政次郎氏の死後にも持っていたにもかかわらず、さらにその後になって「にない堂に行っていた」と平澤氏に書き送るとは、どうしても不自然だからです。

 何か、また新しい史料が出てきてはくれないものでしょうか…。

延暦寺三塔

 このたびは、関西賢治の会の深田稔会長と、テープを提供して下さったKさんに、心から御礼申し上げます。

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