にない堂父子参詣説(1)

 比叡山根本中堂の横にある、あの見事な賢治の歌碑「ねがはくは/妙法如來/正遍知・・・」の脇に、賢治父子の延暦寺参詣75周年を記念して、1996年10月に「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」と題した銘板が設置されました。
 歌碑との位置関係は、下のような感じです。

「根本中堂」歌碑と「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板

 左下にある金属製のプレートが「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板、石段を上って奥にあるのが、「根本中堂」歌碑です。ちなみにこれは今年の4月下旬の写真で、しだれ桜がまだ花をつけていました。

 まず、この「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板に刻まれている文章を、ここに引用して掲載させていただきます。

         宮澤賢治父子延暦寺参詣由来
          (参詣七十五周年記念銘板)

 賢治が父の勧めで島地大等著「漢和対照妙法蓮華経」を読み、同経の中の「妙法寿量品」第十六に感動したのは大正三年十八歳。生家の宗教浄土真宗を捨てて、法華経行者として生きていくことを父政次郎に告げたのは大正七年二月。盛岡高等農林研究科二年終了を機に、大正九年五月日蓮主義国柱会に入会。居室の二階には日蓮上人大曼陀羅、一階には阿弥陀仏を祀る二仏併祭の家となった。賢治の日蓮上人帰依は同年十二月。賢治はお題目を、父は代々の念仏を譲らず、家の中の母子はオロオロするばかり。学友等に対する熱心な折伏も成功せず、父に対するお題目の勧めも容れられず、苦しんだ賢治は自己信仰を強めるため花巻の町を太鼓を打ち鳴らしながら「お題目」を門づけして父や親戚を悩ませた。
 賢治は父の念仏信仰の固い事に業を煮やして、大正十年一月二十三日に無断家出、上京、国柱会日蓮思想普及宣伝に奉仕。東大学生のノートの筆稿(ママ)で生計をたて、低カロリーの食事。自己信仰活動の効果も不毛に近かった。
 父は賢治の将来を心配して花巻から上京。下宿先のウナギの寝床の部屋や質素な生活を目のあたりに見て熟慮の末の提案は、「お前の好きな伝教大師などへ父子で参詣する関西旅行の勧め」であった。賢治も特に反論もなく大正十年四月の初め某日六日間の関西旅行に旅立った。先ず伊勢神宮を参拝。一泊ののち比叡山に直行、伝教大師生誕千百年大法要会の最終日(推定)、まず「不滅の法灯」の根本中堂を拝み、最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。
 この日賢治の延暦寺参詣で得たものは大講堂では「・・きみがみ前のいのりをしらせ」。賢治の認識では伝教大師に問うたいのりは最澄十九歳で入山のときの「願文」であった。同、第五の「回施して悉く皆無上菩提を得せしめん」であったことを賢治は認識体認していたと推定される。又、「根本中堂」のうたは、妙法如来(御本尊薬師如来)を通じての祈願文であった。「・・大師のみ旨成らしめたまへ」のみ旨は、大講堂で伝教大師に対するいのりを確かめたところ、皆に無上得せしめることであったので、賢治は「大師の教えにみそなわして下さい」と歌いあげたものと思われる。
 にない堂の常行堂を拝んでは従来の一派専行から法華経の原点に立ちかえり、伝教大師は「・・悉く皆の無上菩提・・」と言っている事を重視した賢治はみんなの幸福、という目標を案出した。下山後賢治は多数の童話や詩を書いたが、これら自由闊達な宇宙大の作品の制作エネルギーは、父子参詣で得た宗教的理念に根本があると推測される。
 天才賢治を包容力をもって育成したのは父政次郎であり慈母イチの養育にあった。家出滞京窮地の賢治を蘇生させ、彼に仏教文学者の第一歩を踏み込ませたのは、とりわけ父・政次郎の勧めた延暦寺父子参詣、であった事を江湖の方々に末長く伝えるため、賢治生誕百年を記念して、この銘板を建立するものである。
   平成八年十月十三日
          宮澤賢治生誕百年関西記念事業委員会
               賢治実弟     宮澤清六 撰文
               延暦寺執行     小林隆彰 謹識

 長い引用になってしまって申しわけありません。この銘板そのものの写真は、下をクリックしていただければ、直接文字が読めるほどの大きな画像で見ることができます。

宮澤賢治父子延暦寺参詣由来(参詣七十五周年記念銘板)

 で、今回は、この銘板に記されている内容について考えてみたいのですが、まず最初に気になるのは、銘板の最後に「宮澤清六 撰文/小林隆彰 謹識」と書いてあるのは、具体的にはどういうことなのか・・・言いかえれば、上の文章を実際に書いたのは誰なのか、ということです。
 「撰文」というのは、普通は「文章を作ること」という意味でしょうが、上の文章の内容からすると、これは清六氏が直接書いたのではなくて、延暦寺に属する方が書いたのだろうと、私には思われます。というのは、後半部分で、延暦寺父子参詣が賢治に与えたプラスの影響、また伝教大師が賢治に与えた影響の大きさが、特に強調して書かれているからです。
 つまり、上の文章は、宮澤清六氏も内容的には了承をした上で、実際には当時の延暦寺執行・小林隆彰師が書かれたものだろうと、私としては推測します。


 次に文章の内容について、考えてみたいことはいくつかありますが、まず上にも触れた、「参拝が賢治に与えた影響」に関して。
 例えば、

にない堂の常行堂を拝んでは従来の一派専行から法華経の原点に立ちかえり、伝教大師は「・・悉く皆の無上菩提・・」と言っている事を重視した賢治はみんなの幸福、という目標を案出した。下山後賢治は多数の童話や詩を書いたが、これら自由闊達な宇宙大の作品の制作エネルギーは、父子参詣で得た宗教的理念に根本があると推測される。

という箇所や、

家出滞京窮地の賢治を蘇生させ、彼に仏教文学者の第一歩を踏み込ませたのは、とりわけ父・政次郎の勧めた延暦寺父子参詣、であった

という箇所にあるように、賢治がこの「延暦寺参詣で得た宗教的理念」が、その後の文学の根本になったと言えるほど、この時に彼は何かを「得た」のか、という問題です。
 その本当のところは、賢治自身に聴いてみなければわからないことなのでしょうが、少なくともこの時に賢治が詠んだ短歌を見るかぎりでは、「新たなものを得た」というような感興は、まったく見受けられないのです。

776 いつくしき五色の幡はかけたれどみこころいかにとざしたまはん。
777 いつくしき五色の幡につゝまれて大講堂ぞことにわびしき。

 これらの歌について、小倉豊文氏は「旅に於ける賢治」において、

形式的な遠忌の盛大やその荘厳の華麗は、法そのものゝ興隆と何のかゝわりがあろう。事実は却つて逆であつて、「妙法如来正遍知」の教えは地に堕ち、「大師のみ旨」は地を払つてしまつてゐる仏教界の堕落、天台法華宗の衰微は「いつくしき五色の幡」が美しければ美しい程「ことにわびしき」ものであり、「みこころいかにとざしたまはん」と歌はずにはゐられなかつたのであろう。

と、天台宗に対してはかなり厳しい筆致で、評しています。賢治は、当時の叡山の状況を批判的にとらえ、嘆かわしい思いを抱いていたというのです。
 また、佐藤隆房氏も『宮沢賢治』において、

根本中堂に参じ大講堂を拝しました。信仰に燃える賢治さんは、参詣人もなく、研学の僧もいない、静かな大講堂を見て内心甚だしく憤懣の思いでした。

と書き、さらに堀尾青史氏も『年譜 宮澤賢治伝』の中で、

それより進んで大講堂へ。開祖伝教大師大遠忌の五色の幡が堂を飾っている。おごそかであり、美しくはあるが賢治には空しく見える。

と書き、いずれも賢治が当時の延暦寺や天台宗を、否定的に見ていたとの認識を示しています。
 開祖である伝教大師その人に対しては深い尊敬の念を歌にしながらも、一方で、自分の目の前にある叡山の現状には否定的であったというわけですが、このような賢治の考えは、延暦寺に参詣してその場で感じたというよりも、彼はもともと以前から、「日蓮の立場から見た天台宗」という一つの見方を、イメージとして強く持っていたところから来ているのだろうと思います。
 ここで「日蓮の立場から見た天台宗」とは、簡単に言えば、法華経を最高の経典として宣揚した伝教大師最澄は素晴らしかったが、彼以後の天台宗は密教や念仏も取り入れて、堕落してしまったという見方です。
 例えば日蓮御書の「三大秘法禀承事」に、

叡山に座主始まつて第三第四の慈覚智証存の外に本師伝教義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし

とあります。「理同事勝」とは、「法華経」よりも「大日経」の方が勝れているとした第三代天台座主・慈覚大師円仁の説で、このようなことから日蓮は、その後の天台宗は法華を誹謗していると断じました(「早勝問答」)。日蓮に傾倒していた賢治も、このような彼の考えを信じ込んでいたはずで、短歌中の「(伝教大師の)みこころいかにとざしたまはん」とか、「大講堂ぞことにわびしき」という言葉も、こういうところから来ているのだと思います。

 すなわち、賢治はせっかく父と延暦寺に参詣に来たのでしたが、ここで何かを新たに感得したわけではなく、それまで心酔しつつ読んでいた日蓮御書で示されている「型」にあてはめて、延暦寺を見たにすぎなかったのではないかと、私は思うのです。

 賢治がこの時、日蓮の解釈に従って延暦寺を眺めていた様子は、さらに次の二首の短歌にも表れていると思います。

781 みづうみのひかりはるかにすなつちを掻きたまひけんその日遠しも。
782 われもまた大講堂に鐘つくなりその像法の日は去りしぞと。

 781の「すなつちを掻きたまひけん」とは、若き日の伝教大師が根本中堂を建てるために、叡山の地ならしをしたことを指しています。賢治から見ると、「その日」は時間的に遠くなってしまったばかりでなく、開山における最澄の「み旨」の思想からも、(その後の延暦寺は)遠く隔たってしまったという嘆きを詠んでいます。
 782における「その像法の日」という言葉は、781の「すなつちを掻きたまひけんその日」を受けており、最澄が根本中堂を開いた時は、まだ「像法」の時代であったことを踏まえています。ここでことさら「像法」という仏教的時代区分を持ち出す理由は、その後に来る「末法」時代と対比するためと思われます。最澄の「末法燈明記」によれば1052年をもって世は「末法」に入り、日蓮が登場するのも、賢治の参詣も、この末法の時代のことなのです。
 日蓮御書の「観心本尊得意抄」に、

設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如し何に況や慈覚自り已来大小権実に迷いて大謗法に同じきをや、然る間像法の時の利益も之無し増して末法に於けるをや。

とあるように、像法の時代の伝教大師の「法」は、その当時は有意義なものであったが、末法の時代には「去年の暦」のように役に立たなくなっているというのが、日蓮の考えでした。だから末法にあっては、ひたすら法華経に帰依して、「南無妙法蓮華経」と唱えることによってのみ、仏の功徳を受けることができると、日蓮は主張したのです。
 賢治が、自ら鐘をつくことによって、「その像法の日は去りしぞ」と告げ知らせたかった相手とは、実は比叡山全山の天台僧たちだったと言えるのではないでしょうか。
 したがって782の短歌を、私の解釈もこめて意訳すると、次にようになります。
 「私もまた大講堂に鐘をつく。叡山の人々よ目を覚ませ!大師がこの山を開いた像法の日はすでに去り、今やこの末法にあっては、昔の教えに依っていても衆生済度は果たせないのだ。どうかこのことに、皆々も気づきたまえ!」。


 さて、思わず長くなってしまいましたが、まずここで私が言いたかったのは、延暦寺に参詣した賢治の思いは、延暦寺に立てられている前述の「銘板」に記されているような綺麗事ではなくて、もっと苦いものだっただろう、ということです。
 しかし、ここまでは一種の前置きで、私が本来考えてみたかったのは、「銘板」の中に記されている、「父子が延暦寺のにない堂にも参詣した」という「新事実」についてでした。

 ただ、すでにあまりにも長くなってしまいましたので、申しわけありませんが本題に入るのは、次回とさせていただきます。