上の写真は、延暦寺の西塔地区にある通称「にない堂」です。正式には左側が「常行堂」、右側が法華堂で、二つの堂が渡り廊下で連結された対称形になっています。この廊下を「天秤棒」に見立てて、怪力の弁慶ならば肩にかけて「担う」ことができるだろうということから、「にない堂」と呼ばれているわけです。
延暦寺パンフレットによれば、このにない堂の形は、「法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを表し、法華堂では法華三昧の、常行堂では常行三昧の修行が行われる」のだそうです。
さて、前回は本題に入れずに終わってしまいましたが、そもそも私が考えてみたかったのは、延暦寺にある「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」という銘板に記されているように、賢治父子が1921年(大正10年)の旅行において、この「にない堂」にも参詣したのかどうか、ということでした。
ここでもう一度、銘板のその部分を引用します。
一泊ののち比叡山に直行、伝教大師生誕千百年大法要会の最終日(推定)、まず「不滅の法灯」の根本中堂を拝み、最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。
父子が「にない堂」に参詣したなどということは、上記のように賢治の短歌にも詠まれておらず、またこの旅行に関する重要資料である佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史各氏の文献にも記されておらず(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)、その結果、『【新】校本全集』年譜篇にも、書かれていません。
これまでは賢治の短歌の内容から、延暦寺において二人が「根本中堂」と「大講堂」を訪れたことは確実と考えられ、また小倉豊文氏の記述から、「大乗院」にも行ったこともかなり有力視されていました。しかし、「にない堂」に行ったという記載は従来はどこにも見出されておらず、これが本当なら、まさに画期的な「新事実」です。
それで、この「にない堂父子参詣説」について、ここで検討してみようと思うのですが、まずはこの銘板の記載と、従来の他の資料とを比較してみる必要があるでしょう。とりわけ、この「新事実」は、父政次郎氏から小倉豊文氏に伝えられたとされていますから、その小倉氏が残している他の文献と、照らし合わせてみなければなりません。
ということで、下のような簡単な年表を作ってみました。
1951年 2月 小倉豊文「旅に於ける賢治」発表(『四次元』第3巻第2号)
1957年 3月 宮沢政次郎氏 死去
1957年12月 小倉豊文「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」発表(『比叡山』復刊31号)
1978年 8月 小倉豊文「『雨ニモマケズ手帳』新考」刊行
1996年 6月 小倉豊文氏 死去
1996年10月 「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板設置
2004年 3月 平澤農一氏 死去
さて、「にない堂父子参詣説」が、いつ、政次郎氏から小倉豊文氏に伝えられたのかということがまず問題ですが、「銘板」には、「戦後、後日談として」と書いてあるだけで、それ以上具体的なことは不明です。
ただし、ここで少なくとも言えるのは、政次郎氏から小倉氏に伝えられたのは、1957年3月の政次郎氏の死去よりは前だったはずだということです。これは全く当たり前のことですが、後述するように重要なポイントとなります。
まず、小倉氏が1951年に発表した「旅に於ける賢治」は、実際には1949年7月に書かれ、1950年11月に校訂されたことが末尾に記されていますが、いずれにしてもこれは政次郎氏の存命中に書かれたものです。この論文中には、「賢治父子がにない堂に参詣した」ということは書かれていないのですが、その執筆時点で小倉氏がこの「新事実」をまだ政次郎氏から聴いていなかったと考えれば、一応の説明はつきます。
しかし、天台宗宗務局が発行している機関誌『比叡山』の1957年12月号(1957年12月2日発行)に小倉氏が書いた、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」と題された文章に関しては、事情が異なります。この一文は、例の賢治の「根本中堂」歌碑が1957年9月21日に延暦寺で除幕されたことを受けて掲載されたもので、小倉氏がこれを書いたのが、1957年3月1日の宮澤政次郎氏の死去よりも後であったのは、ほぼ確実と言ってよいと考えられます。
つまり、小倉氏がこの文章を書いてから、さらにその後に政次郎氏から何かの「新事実」を伝えられるということはありえないわけで、この文章は、政次郎氏から小倉豊文氏への「最終情報」に基づいていることになります。
そこで、そのような位置づけにある「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を読んでみると、次のような一節が目に入ります。
そして、父子同行二人の巡礼は講堂から戒坦院に及ばず、西塔や横川、四明嶽にも至らずして下山を急ぎ、大乗院や無動寺なども、そそくさと堂前を通りすぎたのみで七曲りから白川越にかかり、全く文字通りの「暗夜行路」で京都の街に入り、当時政次郎氏が愛讀していた「中外日報社」に立ち寄って、聖徳太子磯長の墓への道案内を受け、紹介されて近所の宿屋に勞れきった身をあずけたのであった。(強調は引用者)
すなわち、小倉豊文氏は、政次郎氏の没後に書いた文章においても、賢治父子は(にない堂のある)「西塔」地区へは行かずに下山したと記しているのです。
したがって、この「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」という史料と、「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板という史料の間には、矛盾があることになります。どちらが正しくてどちらが間違っているかをここで簡単に決めることはできません。例えば、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を書いた頃の小倉豊文氏は、政次郎氏から生前に聴いていた話をなぜか一時的に忘却していて、しかしその後また思い出して、平澤農一氏に書き送ったという可能性も、絶対にないとは言えません。
しかし、「史料批判」的に客観的に考えるとすると、「出来事」からの経過時間が短いうちに書かれた史料の方が信頼性が高く、また情報源に近い人物が書いた史料の方が信頼性が高いと、まずは考えてみるのが通例です。この場合、1957年に書かれた「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方が、1996年に書かれた「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板よりも、また、政次郎氏から直接聴いた小倉氏自身が書いた「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方が、政次郎氏→小倉氏→平澤氏→銘板の筆者、と多段階の情報伝達を経た銘板の内容よりも、信頼性が高いだろうと考えるのが、一般論としては合理的なわけです。
もちろんこれは、現在明らかになっている資料から、どちらの蓋然性が高いかを言っているだけであって、確定的なものではありません。しかし、史料の真偽の考証においては、「満足できる説明がないまま遅れて世に出た、というように、その史料の発見等に、奇妙で不審な点はないか」(Wikipedia)ということも、重要視される要素です。私としては、政次郎氏の没後約40年も経た1996年になって、初めて世に出て来た「新事実」というところに、どうしても不自然さを感じてしまいます。
ただ、詳しくは次回に述べる予定ですが、1996年10月に行われたこの銘板の「除幕式」には、平澤農一氏も出席しておられたことが、1996年11月発行の『比叡山時報』に記されています。そうすると平澤氏は、「このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって・・・」という銘板の文章も読んでおられたはずで、その内容に何らかの異議を唱えたという話も伝わっていませんから、やはり平澤氏が小倉氏から何かこのような書簡を受けとっていたのは、事実だった可能性が高い気もします。
となると、小倉→平澤書簡があったことを前提とした上で、考えられる可能性は、
- 前述のように、小倉氏は生前の政次郎氏から「にない堂にも行った」という話を聞いていたが、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を書いた時にはその話を忘却して、「西塔には行っていない」と誤って執筆し、後になってまた政次郎氏の話を思い出して、平澤氏に書き送った
- 小倉氏は政次郎氏から「にない堂に行った」とは聞いていなかったが、年月が経つうちに記憶があやふやになり、「にない堂に行った」と聞いたことがあるような気がしてきて、平澤氏にそう書き送った
- 小倉氏は政次郎氏から「にない堂に行った」とは聞いておらず、その記憶にも変化はなかったが、「もし行っていたら賢治の反応が興味深い」とか、「行っていた可能性も否定はできない」など、小倉氏による考察や推測を平澤氏に書き送ったところ、それが平澤氏から銘板執筆者に伝わる過程で、または銘板執筆者によるバイアスもかかって、「父子がにない堂に参詣した」という話に変化した
というようなところになるでしょうか。なんか、どれを見ても無理矢理っぽいこじつけのような感じがする仮説ばかりですが、皆様なら、どれを選ばれるでしょう。
私自身は、この3つの中ならば、3. を採ろうかと思います。すなわち、父子はやはり「にない堂」には参詣しておらず、銘板に書かれた「参詣説」は、最近になって生まれた一つの「伝説」なのではないかと、考えるのです。
確かに、賢治の信じる「法華」と、父の信じる「念仏」が、一体となって繋がっている「にない堂」の構造を思えば、対立していた父子がともに参詣する場所として、これほどうってつけのスポットはありません。
そしてその構造こそが、延暦寺の思想の象徴だというのです。前回に見たように、「賢治が延暦寺参詣によって新たな宗教的理念を得た」と考えたいという立場があるとすれば、そこに、「にない堂父子参詣伝説」が生まれる土壌は、十分にあるのではないかと、私は思うのです。
[この項つづく]
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