延暦寺根本中堂脇にある賢治歌碑の横に、1996年10月に設置された「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」という説明板の内容について、前々回と前回に考えてみました。そして、説明板には、賢治が延暦寺参詣で得た宗教的理念が、その後の文学創作のエネルギーになったと書かれていますが、実際には賢治はこの時に何らかの新たな「宗教的理念」を得たとは言い難いのではないか、また、西塔にある「にない堂」に父子で参詣したという記載にも、疑問があるのではないかということを書きました。
この「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板が設置された際の記念行事については、『比叡山時報』という延暦寺の機関紙の1996年11月号に、「賢治と比叡山」と題した下のような紹介記事が載っています。
ちょっと小さい字で申しわけありませんが、宮澤清六氏、潤子さん、それから「関西・賢治の会」会長の平澤農一氏も出席して、解説版の除幕式が行われたことが記されています。
そしてその5段目には、次のような記載があります。
比叡山へ来るまでの賢治さんは法華経一辺倒で、他宗は邪教だと考えていたようでした。ところが、比叡山の伝教大師に直接ふれたとき、み仏の願い、大師の本懐は、自らが菩薩の働きをさせていただくことだと悟ったのだということです。
ここにも、延暦寺参詣が賢治に大きな宗教的影響を与えた、という(延暦寺側の)解釈が述べられていますが、説明板においてはまだ「推測」という形をとっていたのが、さらに一歩進んで、「悟ったのだということです」という「事実の伝聞」の形で書かれています。
現実には、「比叡山に来るまで」だけでなく、「下りた後」の賢治も「法華経一辺倒」で、例えば1921年7月に保阪嘉内と辛い別れをせざるをえなかったのも、賢治の強引な折伏のためだったわけですし、同年7月13日付けと推定されている関徳弥あて書簡[195]にも、「おゝ。妙法蓮華経のあるが如くに総てをあらしめよ。」という言葉があります。また、「み仏の願い、大師の本懐は、自らが菩薩の働きをさせていただくことだ」という認識は、彼が法華経と出会って、すでに比叡山に来る前から自覚していたことだろうと、私は思います。
「他宗は邪教だ」という考え方は、たしかに後年の賢治にはだんだん薄れていったように思われます。「銀河鉄道の夜」初期形にも、「けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。」との言葉が出てきます。しかし、そのような賢治の変化も、あくまで「徐々に」であって、延暦寺参詣が転機となって、というものではないのではないかと、私には思われます。
次に、「にない堂参詣説」について。上の記事においても、最下段に次のような記載があります。
当日、関西賢治の会の会長平澤農一氏の依頼で、私は比叡山の「朝題目、夕念仏」について一時間ほどお話しをしましたが、宮沢賢治父子が比叡山を参拝した中で、大講堂に祀られている各宗派の祖師を拝み、更に西塔のにない堂で常念仏の修行をする常行三昧堂にも立ち寄っただろうということ。(中略)などを話させていただきました。
当日に除幕された説明板との関係からして当然でしょうが、やはり父子が「にない堂」にも立ち寄っただろうということが、述べられています。ここで、「常行三昧堂(常行堂)」というお堂は修行僧だけが入れる場所で、一般人は中を見ることもできませんから、「常行三昧堂に立ち寄った」と言っても賢治たちは外から拝むことしかできず、これは「にない堂に参詣した」という表現を越える何らかの行動を意味しているわけではありえません。
それを念頭に上の記事を見ると、説明板の記述では、「新事実」と断定していた事柄を、ここでは「常行三昧堂にも立ち寄っただろう」と、推測の形で記しているのが、私としてはちょっと気になります。前回、小倉豊文氏が平澤農一氏に送った書簡の内容について、にない堂参詣を「事実として」記してあったのではなくて、「推測や考察として」書いてあっただけだったのではないかという仮説について述べたのは、こういうことにも由来しています。
以上、くどくどと考えてみましたが、あとこれ以上真相に迫ろうと思えば、故・平澤農一氏のご遺族に依頼して、もし小倉豊文氏から送られたという書簡が残されていたら、それを見せていただく、というようなことしかないかとも思います。しかし今のところ、私などにそんなことが可能とも思えませんし、せめて今後の課題として、心の底には留めておこうと思います。
さて最後に、賢治父子の比叡山越えの時間的な側面を、見ておきます。
「延暦寺三塔巡拝マップ」(比叡山延暦寺)より一部分を拡大
上の図で、青の四角で囲んであるのが、一応定説として賢治父子が訪れたとされている、「根本中堂」、「大講堂」、「大乗院」です。右上の方に緑の四角で囲んであるのが、問題の「にない堂(常行堂・法華堂)」です。右下に記した「登山路」は、いわゆる「本坂」のルートを表し、左の「下山路」は、無動寺から京都の白川の方へ向かう道です。
まず、『【新】校本全集』第十六巻(下)補遺・伝記資料篇に収録されている当時の時刻表によれば、当日の朝に父子は二見浦駅を7時13分発の列車に乗り、亀山で関西本線に乗り換えて、柘植駅に着いたのが11時20分、さらに草津線に乗って大津駅で下車したのが13時08分ということです。湖南汽船の石場港から13時40分発の船に乗り、坂本港に着いたのは、14時30分と推定されています。
ここから、徒歩で比叡山越えにかかるわけですが、以後は山道に関しては「山と高原地図」(昭文社)の「京都北山」図に記載されている、一般的な登下山所要時間を採用し、市街などの平坦地においては時速4kmという設定で計算してみました。
「にない堂」には行かなかったとすれば、所要時間は下のようになります。
・坂本港
>40分
・比叡登山口
>1時間30分
・根本中堂
>40分
・無動寺
>大乗院往復20分
・無動寺
>1時間15分
・地蔵谷
>30分
・仕伏町
>40分
・出町
>15分(市電)
・三条小橋
これは、けっこう短めに見積もった時間で、なおかつ延暦寺諸堂での拝観に要した時間や、休憩時間は、含めていません。それでも、上記の時間を合計すると、5時間50分になります。
すなわち、14時30分に坂本港を出たとすれば、三条小橋の旅館に着くのは、どんなに早くても20時20分ということになります。拝観に要した時間や、慣れない道だったことを考えると、少なくとも午後9時を過ぎていたと考えてよいのではないかと思います。
そして、根本中堂や大講堂のある「東塔」から、にない堂のある「西塔」までは、徒歩で約30分かかります。すなわち、賢治父子がにない堂に参拝したとすれば、しなかった場合に比べて、往復で1時間余分にかかってしまうことになるのです。となると、旅館に着くのは午後10時以降ということですね。
だからといって「にない堂に行かなかった」とは言えませんが、このような時間的な大変さも、考慮すべき一つの要素ではあるでしょう。
それからもしも現在だったら、延暦寺の拝観時間は8時30分から16時30分までとされており、この日の賢治父子の行程に従えば、根本中堂に着く直前に時間切れとなってしまうところなんですね(笑)。
平澤農一氏の継孫
はじめまして。コメント失礼いたします。
とあることから、このページを拝見いたしました。
平澤農一氏が私の義祖父となります。
「にない堂参詣」については、私も下記のように大変に興味がございます。
農一氏の娘である義母に、岩手の実家にあるかもしれない研究資料をお借りするなどして、私も少し研究してみようと考えております。
なぜ、宮沢賢治父子「にない堂参詣」の有無が重要となるのか
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/d6f42480be9cd94561adc117570c0c0d
また、研究に進展がございましたら、コメント欄にてお知らせさせて頂きます。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。
hamagaki
平澤農一氏の継孫さま、コメントをありがとうございます。
ぜひとも、平澤農一氏の遺された資料等を、ご研究いただければと願っております。
とりわけ、農一氏が小倉豊文氏から受け取ったという書簡がもしも見つかれば、賢治父子がにない堂に参詣したのかという問題について、画期的なことがわかるかもしれません。
研究に進展があれば当コメント欄にてお知らせいただけるとのこと、心より感謝申し上げます。
今後とも、どうかよろしくお願い申し上げます。
匿名
hamagaki さま
義母より資料を一部拝借いたしました。
父・政次郎さんの記憶による口伝を小倉豊文氏・賢治史研究家が聞いて書き留めた文書、確かに現存しているとの資料内では記載がありましたが、今回の資料にそれは含まれていませんでした。ただ、岩手の実家に大切に保管されてあるものと思うとのことでしたので、またの機会となりそうです。
新たに資料を分析して分かったのは、当時、延暦寺を知り尽くされている延暦寺執行の小林隆彰大僧正が、賢治比叡十二首の最後の
「暮れそめぬ ふりさけみれば みねちかき 講堂あたり またたく灯あり」
従来、白川路帰路で詠まれたとされるこの歌、白川路からは大講堂が、比叡山頂の千米山に遮られて見えないため、白川路で詠まれたものではないとして、にない堂付近で詠まれたものではないかと疑問を呈されてあったのも論拠の一つとなった経緯が記されてありました。
私は歌の内容もそれを示しているのではないかとは思うのであります。
「またたく灯」に、少しほっとした両者の和解、雪解けの温かさを感じるもので、
最後の歌として、にない堂を参拝した父子の心の通いを思うわけであります。
このことから、やはり、父子は、にない堂を参詣したと、私も考えるのではあります。
とにかく、引き続き資料を更に分析して参りたいと思います。
hamagaki
調査の経過をお知らせいただきまして、ありがとうございます。
引き続き、新たな発見を楽しみにしつつ、お待ち申し上げております。
「786 暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり」が、にない堂付近で詠まれたのではないかとのお話ですが、にない堂のある西塔地区と、大講堂のある東塔地区は、同程度の標高(660mほど)で、直線距離で700mあまり離れており、この間は鬱蒼とした林の中を通る道ですので、にない堂付近から大講堂を見通すのは、難しいのではないかと思います。
個人的にこの歌は、父子が東塔地区を後にして、大乗院のある無動寺谷に向かう途中のどこかから、大講堂の方を振り返った眺めなのではないかと思っています。
確かに、京都側に向けて下る白河路からは大講堂は見えないでしょうが、それよりもかなり手前のことになります。
(このページの中程あたりに掲載している地図を、ご参照いただければ幸いです。)
どうか今後とも、よろしくお願い申し上げます。