青年賢治の目ざした仕事

 青年時代までの賢治が、自分の将来の職業や目標についてどのように考えていたのか、賢治自身が書いたものから抜粋してみます。

  • 1907年(明治40年)2月:10歳(花巻尋常高等小学校4年の綴り方)
    私はお父さんの後をついで、立ぱな質屋の商人になります。

 これはまだ「青年賢治」になる前の、番外篇的エピソードであるが、賢治が小学校で種々な影響を受けた八木英三担任が退職するにあたり、「立志」という題で児童に綴り方を書かせた際に、賢治が書いたという一文である。
 ここには、まだあどけない健気な「孝行息子」の姿がある。

  • 1917年(大正6年)1月16日:20歳(トシあて[書簡30])
    私もまあ、大低学校を出てからの仕事の見当もつきました――則ち木材の乾溜、製油、製薬の様な就れと云へば工業の様な仕事で充分自信もあり又趣味もあることですからこれから私の学校の如何に係らず決して心配させる様な事はありません。

 盛岡高等農林学校2年時に、日本女子大在学中の妹トシに書き送った内容。初めて賢治が自分の意思や知識にもとづき、将来の希望について述べた。ここでまず挙げられたのは、「化学工業」的な仕事である。

  • 1918年(大正7年)2月1日:21歳(政次郎あて[書簡43])
    就ては教授の御考にては小生同級の鶴見氏又は小生の中一人学校の研究生として残り費用は大体稗貫郡より得て本土性の調査を行ひ他によき就職口のあり次第之に廻すとの事に御座候(中略)
    扨て右は兼て父上の御勧め下され候如く研究科にも残り稗貫郡の仕事にても有之又研究中も大体月二十円位は得べく誠に好適なる様に御座候へども小生は之を望み兼ね申し候 研究科には残り候とも土性の調査のみにては将来実業に入る為には殆んど仕方なく農場、開墾ならば兎に角差当たり化学工業的方面に向ふには全く別方面の事に有之候

 高等農林学校卒業を目前に控えた時期の父あて書簡で、父は研究生として学校に残ることを勧めるのに対し、賢治は「化学工業的方面に向ふ」には土性調査は役に立たないことを理由に、研究生にはなりたくないと言っている。
 賢治はやはりこの時点でも、前年にトシに告げていた「化学工業的方面」を目ざしていたことがわかる。「土性調査などやっても役に立たない」と言っているが、実はこの経験が将来の「肥料設計」においては役立つことになるのが、人生の不思議である。

  • 1918年(大正7年)2月2日:21歳(政次郎あて[書簡44])
    先づは自ら勉励して法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をもつくのはしめ進みては人々にも教へ又給し若し財を得て支那印度にもこの経を広め奉るならぱ誠に誠に父上母上を初め天子様、皆々様の御恩をも報じ折角御迷惑をかけたる幾分の償をも致すことゝ存じ候
    依て先づ暫らく名をも知らぬ炭焼きか漁師の中に働きながら静かに勉強致したく若し願正しければ更に東京なり更に遠くなりへも勉強しに参り得、或は更に国土を明るき世界とし印度に御経を送り奉ることも出来得べくと存じ候

 前の書簡の翌日付のものであるが、ここでは「先づ暫らく名をも知らぬ炭焼きか漁師の中に働きながら静かに勉強致したく・・・」と、前日の「化学工業的方面」とは全く違ったことを述べている。
 いきなり「炭焼き」や「漁師」など肉体労働者になるとはあまりに極端な主張で、なかなか希望を受け容れてくれない父親への反発が感じられる。

  • 1918年(大正7年)6月20日:21歳(政次郎あて[書簡71])
    (研究生としての今後の予定を記した後)
    右の如くにては今年及来年四月迄は全く書籍二三冊も読み難く又自分の研究等は勿論出来ざる次第にて実は来年四月に至り候とも全く何の仕事に従事すべきや見当附かざる次第に御座候
    (続いて最近は実験でも失敗ばかりしていることを述べ)
     仍て本日先生にその事情を総て話し且つは失敗の詫をも致し候。特に早く林の中か海浜かにて静なる職業に従事しとし子の保養等も出来る様致し度き旨等も申し述べ候。且つ若し成る事ならば本年末迄に予定の仕事を総て終へて一月よりは諸方工場の見学等に歩き度き旨申し候。

 結局、賢治は父の意見に従い4月から研究生となったのだが、早くも6月には、研究生を辞めたいと教授と父親に願い出る。理由は、「忙しくて自分の勉強や研究ができない」「自分には実験や分析は向いていない」「続けていても将来の仕事の見当が附かない」等々。
 続いて述べるところの、「早く林の中か海浜かにて静なる職業に従事し」という部分は、「炭焼き」や「漁師」になると言った2月の書簡とつながっていると思われ、「一月よりは諸方工場の見学等に歩き」という部分は、「化学工業的方面」の仕事との関連と思われる。

  • 1918年(大正7年)6月22日:21歳(政次郎あて[書簡72])
    序を以て私の最希望致し候職業の初め方をも申し上げ候
    実は私の今迄勉強したる処にては最、地に関係ある則ち岩石、鉱物等を取扱ひたくは存じ候へども右の仕事はみな山師的なることのみ多く到底最初より之を職業とは致し兼ね候
    依て他に一定の職業有之候はば副業的に例へばセメントの原料を掘りて売るとか石灰岩や石材を売るとかその他に極めて小規模の工場にて出来る精錬の如き事も有之可成実験的に仕事を続け得べくと存じ候

    (続いて岩手県内で産出の見込みのある鉱物を列挙した後)
    依て最初は極めて小規模に炭焼の煙より薬品の分離等を致し旁ら香料の蒸留とか油類の抽出等をも行ふとすれば充分の事と存じ候
    就ては斯る林の仕事は材木より調材迄は若し可能ならば直接に経営せざる方最望ましき所に有之就ては只今単に炭を焼き居り候処にてその煙を用ふるを最得策と致し候
    (中略)
    若し林の仕事不可能なるときは花巻の近くにて単に諸製材所の鋸屑を買ひ集めて薬品を製する事も得べく候

 前の書簡で研究生を辞めたいと言って、父から「忍耐力がない」とたしなめられた賢治は、性に合わない実験も「忍びを習ふ道場」と思って続けるつもりだと書いた後、自分の将来の職業の希望について、より詳しく述べる。
 まず、ここで初めて「岩石、鉱物等を取扱」う、鉱業的方面の仕事が登場したことが注目される。以前の賢治は化学工業的方面を希望していたのであるから、この変化には、稗貫郡土性調査に従事してこの方面の知識を得たことの影響が大きいと思われ、それは少年時代に「石コ賢さん」と呼ばれた彼自身の嗜好にも合致するものであった。
 具体的に挙げられている内容のうち、「石灰岩や石材を売る」という事業が、この十数年後に東北砕石工場の技士兼セールスマンとして現実化したことは、興味深い。石灰肥料を売るだけでは採算が難しくなった東北砕石工場の新規事業として、建築用の人造石材製造を提案したのは賢治であり、そこにはこの頃の着想が生かされていると言える。ただし、その石材を売り込むために、重い見本を持って上京し病に倒れたのは、この上ない悲劇だったが。
 さらにこの書簡では、以前にやけくそ的に言い出した「炭焼きになる」という話が、「炭焼きの煙から薬品等を抽出する」という化学工業的な事業に結びつけられているのも面白い。

  • 1918年(大正7年)〔8月〕:21歳(保阪嘉内あて[書簡83a])
    私は長男で居ながら家を持って行くのが嫌で又その才能がないのです。それで今私は父に、どうかこれから私を家が雇って月給の十円も呉れる様な様式(形式ではない、本統に合名会社にでもして仕事をするつもりです ことに鉱業的なこと、又工業原料的なこと)にして呉れまいかと頼んでゐます。そして又この辺では沢山仕事はありますがみな大きな資本が要ります。とても私などが経営できる事はありません。とにかくこの様にして三十五迄も働けば私の父と私の母とが一生病気にかゝっても人に迷惑をかけないで済む様な状態に私の家がなります。それは私が稼いでそうなるのではなくて今私の家にある株券(少しの)や何かゞ生活費さへ償って行けばひとりでに三万円位にはなるでせう。(中略)
    今の夢想によればその三十五迄には少しづゝでも不断に勉強することになってゐます。その三十五から後は私はこの「宮沢賢治」といふ名をやめてしまってどこへ行っても何の符丁もとらない様に上手に勉強して歩きませう。それは丁度流れて、やまない私の心の様に。

 保阪嘉内にあてて、上の書簡で父親に述べたようなことを「合名会社」としてやりたいということを書き送る。後半は、35歳を過ぎたら家を出て自由に暮らしたいということであろうか。

  • 1918年(大正7年)〔12月初め〕:22歳(保阪嘉内あて[書簡93])
    私のうちでは今の商売を大正九年まで続けて居ればそれから後は学費もあまり要らないし学校を出たものはみな働くし先づ仮令父が今の様に病気でも何とか出来るのです 今私が私の望むように東京へでも小工場を持つといふことは家としては非常な損ですし又当分は不可能です
    又私一人、家にかゝはりない私、箇人としてはさっぱりそんなもうけることはしたくありませんししなくても畑の三段歩も耕してゐれば静に自分を完成して行くことが出来るのです。けれどもそれは私丈のことです。
    みんなの為を思ふならば先づ自分を完成しなければなりませんがその道/方法は自分の為でもほかのひとの為でもいゝ訳だらうと思ひました
    (中略)
    けれども若しできるならば早く人を相手にしないで自分が相手の仕事に入りたいと思つてゐます
    えらい人たちは烈しい人の心の中で恐れず怒らず自分の道を進んで行くやうですが私には当分そんなことは見込ありません やはり険しい世界へ入ればそれにばかり気をとられてしまひます それですから大正九年以後の私の仕事は今からお約束致しかねます 多分はまだ林のなかへは入り兼ね小さな工場を造つてその中で独りで、しんみりと稼ぎませう。

 これも保阪嘉内あて書簡であるが、「東京へでも小工場を」という希望が登場している。
 この書簡も前の書簡もそうであるが、この頃の賢治には、「世の中や人のために尽くす」という発想は見られず、「人を相手にしないで自分が相手の仕事」を目ざしている。

  • 1919年(大正8年)1月31日:22歳(政次郎あて[書簡135])
    然れどもいつまでこの儘にも参らざる訳故幸有之とし子の方も定まり候はゞ早速仕事に掛り度と存じ候。
    その方法は大体次の如くに致し候。
    先づ第一期に於ては
    (一)、飾石、宝石及印材ノ研磨。(仕上ノミ、)
         (小器具、宝石用小函、文鎮等ノ製造。)
    (二)、金属部ヲ買入レテネクタイピン、カフスボタン、指環等ノ製造。
    (三)、鍍金。
    (四)、(砂金ヲ地方ヨリ買入、債権ヲ市内ヨリ買入)
    丈を適宜取り合わせて始め、製品は小売店、(市内及地方。)の確実なる所へ売り度、尤も東京には指環宝石等の買入商は多く有之候。
    右仕事にて一定の収入を得る見込に至らば、人をも使ひ、実際に収入を得たる後には次第に第二期の仕事則ち以上の外に
    (五)、鉱物合成(宝石人造。)
    (六)、宝石飾石改造。
         (不良の宝石を良質に変ずる等。)
      及副業として
    (七)、絵具製造。
    を始め度と存じ候。

 前年末に東京で病に倒れたトシを看病するため上京中の手紙。トシの病状もほぼ落ち着き、この機会にかねての「東京へでも小工場を」という希望を実現すべく、父に積極的に働きかける。計画の内容は、「化学工業」の方向ではなく「岩石・鉱物」の関係である。
 賢治はこの直後にも、小工場の設備予算の見積もりなどを書き送って父の賛同を求めるが、現実家の父はこれを認めない。

  • 1919年(大正8年)2月5日:22歳(政次郎あて[書簡140])
    私の職業等は又後の問題に致しても宜しく候へどもそれ程までに稼ぐと云ふ事が心配なるものに御座候や。何卒私に落ちつきてまじめに働くべき仕事を御命令被成下度候。車の後押にても純粋の百姓にても何にても宜しく候。又は私に自由に働く事を御許し下され候や。宝石等を扱えばこそ都会に住む事も必要に御座候。どこにても宜しく候。

 トシの病状が回復して花巻に帰るべき時期が近づき、賢治にも焦りが見える。「車の後押にても純粋の百姓にても何にても宜しく候」と、またやけくそ的なことを言っている。「車の後押」については、『新校本全集』第十五巻の「校異篇」に、『明治世相百話』からの次の引用がある。「山ノ手方面には急勾配の坂が多く、九段をはじめ湯島の切通し、神田の明神坂、小石川の富坂などみな急坂で道幅も今の半分以下、坂下にはルンペンの立ちん坊がゐて、一銭づつで荷車や人力の後押し、見るも気の毒なほどに骨が折れた。」
 このような「車の後押」と、「純粋の百姓」とが並列されているところに、当時の賢治の「百姓」に対する意識が現れているのではなかろうか。

  • 1919年(大正8年)〔7月〕:22歳(保阪嘉内あて[書簡152a])
    私ならば労働は少くとも普通の農業労働は私には耐え難いやうです。これはちいさいときからのからだの訓練が足りない為ですからもし本当に稼ぎたいと思ふならばこれからでも遅くはない。稼ぐのを練れるには遅くはない。けれどもその間は私の家は収入を得ない。少くとも収入は遥に減ずる。
     あゝ私のからだに最適なる労働を与へよ。この労働を求めて私は満二ヶ年aからb、bからc、つかれはててやっぱりもとのまゝです。もう求めません。商人は生存の資格がないと云ふものも出て来い。きさまは農業の学校を出て金を貸し、古着をうるのかと云ふ人もあるでせう。これより仕方ない。仕方ないのですから仕方がないのです。

 労働に対する悲観とあきらめにも似た気持ちを述べる。「きさまは農業の学校を出て金を貸し、古着をうるのかと云ふ人もあるでせう。これより仕方ない。仕方ないのですから仕方がないのです」という言葉から考えると、この時点では(渋々ではあるが)家業を継ぐ気持ちになっていたのであろうか。

  • 1920年(大正9年)〔2月頃〕:23歳(保阪嘉内あて[書簡159])
    これからさきのことは予定はしてありますがどう変るやら。とにかく私にはとても私の家を支えて行く力がありませんので多分これは許して貰へるでせう。三十余年を私のために柄にもない商売の塵のなかに閉ぢこもりなほ私を開放しやうとする私の父に感謝いたします。

 「私にはとても私の家を支えて行く力がありませんので多分これは許して貰へるでせう」「私を開放しやうとする私の父に感謝」という言葉からは、家業を継がなくてよいと父からも認めてもらえる(したがって自分は継がない)という見通しが持てたことが、推測される。家業は弟の清六が継ぐという雰囲気が、家庭内で徐々に固まってきたのだろうか。
 では自分は何をするのかとなると、「予定はしてありますがどう変るやら」とだけ言う。

  • 1920年(大正9年)8月14日:23歳(保阪嘉内あて[書簡168])
    来春は間違なくそちらへ出ます 事業だの、そんなことは私にはだめだ 宿直室でもさがしませう。まづい暮し様をするかもしれませんが前の通りつき合ってください。今度は東京ではあなたの外に往来はしたくないと思ひます。真剣に勉強に出るのだから。

 前の書簡で「予定はしてあります」と言っていたのは、「東京に出て勉強する」ということだったようである。
 「宿直室でもさがしませう」との言葉は、実際に翌年に家出上京して国柱会館に飛びこみ、「下足番でもビラ張りでも何でも致しますからこちらでお使ひ下さひますまいか」と言ったことの前触れのようでもあるし、また後年の「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」において、「そしてまもなくこの学校がたち/わたくしはそのがらんとした巨きな寄宿舎の/舎監に任命されました」という箇所も連想させる。

  • 1921年(大正10年)〔1月中旬〕:24歳(保阪嘉内あて[書簡180])
    お便り拝見いたしました
    あなたは春から東京へ出られますか
    お仕事はきまってゐますか
    私の出来る様な仕事で何かお心当りがありませんか
    学術的な出版物の校正とか云ふ様な事なら大変希望します
    今や私は身体一つですから決して冗談ではありません
    けれどもあなたにひどく心配して戴く事は願ひません 学校へは頼みたくないのです
    勉強したいのです 偉くなる為ではありません この外に私は役に立てないからです

 1月23日の家出上京の直前の書簡である。「学術的な出版物の校正」という目算は、「宿直室」という案よりも実際に家出中に「文信社」で行った仕事に近づいている。
 それにしても、「勉強したいのです」「この外に私は役に立てないからです」との言葉が悲痛である。現実の賢治は後年になると、教師として、農業指導者として、たぐいまれなほど「人のために尽くした」生涯を送ったと見なされるようになるのだが。

  • 1921年(大正10年)〔12月〕:25歳(保阪嘉内あて[書簡199])
     暫らく御無沙汰いたしました。お赦し下さい。度々のお便りありがたう存じます。私から便りを上げなかったことみな無精からです。済みません。毎日学校へ出て居ります。何からかにからすっかり下等になりました。それは毎日の NaCl の摂取量でもわかります。近ごろしきりに活動写真などを見たくなったのでもわかります。又頭の中の景色を見てもわかります。それがけれども人間なのなら私はその下等な人間になりまする。しきりに書いて居ります。書いて居りまする。お目にかけたくも思ひます。愛国婦人といふ雑誌にやっと童話が一二篇出ました。一向いけません。学校で文芸を主張して居りまする。芝居やをどりを主張して居りまする。けむたがられて居りまする。笑はれて居りまする。授業がまづいので生徒にいやがられて居りまする。
    春になったらいらっしゃいませんか。関さんも来ますから。さよなら。

 7月の東京における保阪嘉内との重大な会見を経た後、農学校に就職したことを報じた書簡である。この間いろいろあったが、賢治はやっと「仕事」に就くことができた。
 やや自らを茶化すような筆致ながら、「学校で文芸を主張して居りまする。芝居やをどりを主張して居りまする。」というところは、嘉内とともに『アザリア』で青春をかけた「文芸」を、さらに賢治が嘉内から多くを教えられた「芝居」を、今も自分がやろうとしていることについて、ぜひ親友に伝えたい気持ちが行間からにじみ出ているようである。

  • 1925年(大正14年)6月25日:28歳(保阪嘉内あて[書簡207])
    お手紙ありがたうございました。
    来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます いろいろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します わたくしも盛岡の頃とはずゐぶん変ってゐます あのころはすきとほる冷たい水精のやうな水の流ればかり考へてゐましたのにいまは苗代や草の生えた堰のうすら濁ったあたたかなたくさんの微生物のたのしく流れるそんな水に足をひたしたり腕をひたして水口を繕ったりすることをねがひます
    お目にもかゝりたいのですがお互ひもう容易のことでなくなりました 童話の本さしあげましたでせうか

 現在わかっているかぎりでは、賢治が保阪嘉内にあてた最後の書簡である。
 この書簡に関しては、大明敦氏が述べられたように、また最近「りんご通信」において signaless さんが書いておられるように、「来春は私教師をやめて本統の百姓になって働きます」の、「も」という一文字に、賢治がこめた万感の思いを想像せざるをえない。
 ここに至って、かつて嘉内が語っていた理想と、賢治自身の生き方が、やっと重なり合ったのである。

◇          ◇

 もちろん、賢治の仕事はまだここで終わっているわけではありませんが、とりあえず20代までを通覧すると、賢治の目ざした「仕事」は、次のように推移していきました。

  1. 家業を継ぐ(小学生~)
           ↓
  2. 化学工業的事業(盛岡高等農林学校2年~)
    木材の乾溜、製油、製薬等。「炭焼きの煙」利用の話も。
           ↓
  3. 鉱物・岩石関係の事業(盛岡高等農林学校研究生~)
    岩手県内の鉱物の採取販売案から、東京における小工場案へ。
           ↓
  4. 家業を継ぐ(1919年頃)
    父とのさまざまな議論の後、あきらめにも似た心境で。
           ↓
  5. 家業を継がず、東京で(保阪嘉内とともに)「勉強」(1920年~)
    賢治としては、日蓮主義の「勉強」のつもりであったろう。
           ↓
  6. 保阪嘉内は上記の方針に同意せず、失意の帰郷(1921年夏)
    結局、この年の12月から農学校教師となる。
           ↓
  7. 農学校を辞職して、羅須地人協会を始める(1926年春~)

◇          ◇

 長々と書簡などを引用してしまいましたが、今回の記事で私が言いたかったのは、簡単に次のことです。
 賢治は、高等農林学校の農学科まで卒業しましたが、自らが農業と関わろうと考えた様子は、上のように少なくとも農学校に就職するまでは、全く見られなかったという事実です。
 高等農林在学中はもちろん、1918年に卒業してから1921年の終わりに農学校教師となるまで3年以上、おもに化学工業または鉱業に関連した事業を模索してはみましたが、その企画は父親から見ると机上の空論にすぎず、賢治もそれを具体化させることはできませんでした。この間、賢治が農業に対して関心を払っていた形跡はありません。
 もちろんその後の賢治は、教師として科学的な農業の普及に努め、さらには自ら「本統の百姓」になって、羅須地人協会の活動や肥料相談などを通じて、農民の生活の改善に身を捧げました。これはまぎれもない事実ですし、その尊い志をもって「農聖」と讃える人もあります。
 しかし、ある時期までの賢治は、そのような生き方をしようとは、考えてもいなかった青年だったのです。

 それでは、賢治はどのような経緯で、「農民のために生きよう」と考えるようになったのでしょうか。
 その一つの要因は、農学校教師として生徒たちとじかに接することにより、農家の生活の実態に触れ、何とかしてその改善のために力を尽くしたいと思うようになったことでしょう。

 そしてもう一つの要因として私がどうしても強く意識するのは、保阪嘉内の存在です。嘉内は、甲府中学在学中から弁論部で「美的百姓」「花園農村の趣味及び目的」などの演説を行い、後者の結びでは「諸君百姓たれ」と述べています。また彼は、盛岡高等農林学校に入学した年に自ら脚本を書いて寮の懇親会で上演した「人間のもだえ」という劇においても、最後に「人間はみんな百姓だ。百姓は人間だ。百姓しろ。百姓しろ。百姓は自然だ。」と、神に言わせています。
 ただ、嘉内はこのような農業観を盛岡高等農林学校在学中にも折に触れ周囲に語っていたはずですが、親友であった賢治の方は、自らの生き方に関しては、この嘉内の考えから影響を受けていた様子はありません。それは上に見たとおりで、1921年の家出上京中にも、特に農業への関心は示していません。

 そのような賢治の考えが、どこから変化したのか?
 私はそれは、1921年7月の、嘉内との深刻な「会見」が契機となったのだろうと思います。この時、二人の間でどのような議論が行われたのかはわかりませんが、おそらく嘉内は、自ら百姓となって農村に尽くす昔からの決意を語ったのではないかと、私は思います。賢治は、あらためて国柱会への入会を嘉内に迫ったかもしれませんが、そうだとすれば、賢治の観念的なレベルの話と、嘉内の具体的・現実的な話は、なかなかかみ合わなかったでしょう。
 話し合いは物別れに終わったのだろうと思いますが、賢治の心の中には、無念さや悲しみとともに、嘉内が農業にかける熱い思いが、あらためて強く刻まれたのではないかと、私は思うのです。
 上のように賢治の考えを時系列でたどってみても、家出上京してから花巻に帰郷するまでの間の時期というのが、転回点としてどうしても重要に感じられるのです。

 これが、1921年の嘉内との「会見」が、賢治の考え方の転機になったのではないかと思う理由です。長々と書いた割に、結論は平凡でした。

保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑
「保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑」(山梨県韮崎市)