去る9月22日の「宮沢賢治賞」受賞にあたって吉本隆明氏が行った特別講演の内容を、「ほぼ日刊イトイ新聞」の下の記事から読むことができます。
今回の受賞理由にも挙げられた『吉本隆明 五十度の講演』の制作元レポーターが取材してまとめたものですね。当日の講演は、マイクの位置なども関係して聴きとりにくい箇所もあったのですが、さすがにこれは今のところ私が Web上で見た中では、いちばん詳しく文章化されていると思います。
当日に聴かれた方も、聴かれなかった方も、どうぞ。
あらためて読みなおして私は、吉本隆明氏が18歳の時に書いた「詩碑を訪れて」の中に、次のような一節があったことを思い出しました(『吉本隆明全著作集15 初期作品集』より)。
ぼくは賢治さんを敬慕する 日本歴史上僕がほれた最初の人だ
だから僕は賢治さんに盲目的に追従したくないんだ 生きてゐる人にさへお世辞を言ひたくないのに、死んだ人に言ふのは尚嫌だからなあ――
上の文章から66年を経て、このたびの講演はもちろん賢治さんへの「お世辞」ではありませんが、吉本氏から賢治さんへの「敬慕」「ほれた人」という思いが、にじみ出ていたように感じます。
話は変わって、最近のニュースでは、たまたま私が「花巻第五日」に見てきた「賢治ゆかりの梨の木」の収穫が、近くの保育園の園児たちによって行われたそうです。
さらに、花巻東高校の菊池雄星君が、「プロ志望届」を提出し、日米球団による獲得合戦の火ぶたが切って落とされたというニュース。
地元のタクシー運転手さんによれば、「宮沢賢治以来の花巻の有名人の誕生」とのこと!
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あと、賢治とは関係ないことですが、今年4月に設立され、個人的に興味を持って見守ってきた「一般財団法人 夏目漱石」が解散するとのニュースがありました。
この財団は、「夏目漱石に関する人格権、肖像権、商標権、意匠権その他無体財産権の管理事業」などを目的に、漱石の子孫である夏目一人氏が代表理事となって設立されたものですが、上の記事にもあるとおり、漱石の直系の孫であるマンガ・コラムニストの夏目房之介氏は、「特定の者が権利を主張したり、一般の利用に介入したりすべきではない」として、設立に反対の立場を表明しておられました。
下記は、夏目房之介氏のブログ(夏目房之介の「で?」)から、財団設立を知らされた時の態度表明と、解散を受けての記事。
夏目房之介氏の考え方については、だいぶ以前に「作者の遺族が守ろうとするもの」という記事でも触れたことがありましたが、今回の出来事と賢治の(以下自粛)
雨三郎
hamagakiさんが非常に気を使われながら、賢治にまつわる表現活動の試みに対して特定の組織や人々が発言権を保持しようとすることに疑問を呈しておられることは、当方としても共感の思いです。自由に表現活動が行われる中で様々な表現が対話を交わし合い、切磋琢磨し合い、あるものは強化、純化、洗練され、またあるものは淘汰され、新たな形で展開して行く、こうしたダイナミックな過程が自由社会の強みではないかと思うのですが、この「特定の人々による発言権」は、たとえそれがどのような意図のもとになされるものであろうとも、やはりこの自由な過程を妨げてしまうように思われるのです。
やや過激に聞こえるかも知れませんが、当方としてはそもそも「宮沢賢治そのもの」などというようなものは存在しないのではないか、あるいは彼の「本来性」というようなものは想定されるべきではないのではないかと考えております。あるのは、様々な視点を持った様々な人々によるこの詩人への接近の試みでしかないのではないか、と考えております。もちろん、彼の遺した様々な文章やその生涯の軌跡に深く関わり合いながら彼の魂を見つめようとし続けることは彼を理解するための原点であり、大切なことだと思いますが、しかしだからといってそれによってその「本来性」に行き着くわけではないと思うのです。自由な表現社会の中で宮沢賢治という豊穣な音楽が様々な形で変奏され、展開して行く過程には、逸脱と見えるものが現れない保証はないと思いますが、しかしこの過程に一方的な掣肘を加える特別な権利というものは誰にもないのではないかと思うのです。
hamagaki
雨三郎さま、真摯なお言葉をかけていただきましてありがとうございます。私にとっては、何よりも勇気になります。
今回の記事は、気はつかいながらもかえって何かおかしな感じになってしまいましたので、余計なところは削除しようかと思っていた矢先でした。趣旨をお汲みとりいただきまして、恐縮です。
私としましては、雨三郎さまの書き込んでいただいたことに、心から共感いたします。このような有り難いお言葉をかけていただけることは、ブログをやっていて最高の幸せです。
一方、また他の様々な立場の方々には、それぞれのお考えはあって当然と思いますので、その辺は私として今後も「非常に気をつかいながら」、誤解のなきよう書いていきたいと思っています。
このたびは、本当にありがとうございました。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。