「雲の信号」と雁

 数年前から、「石碑の部屋」の「雲の信号」詩碑というページに、この作品に関する私なりの解釈を載せていました。この「信号」というのは、いったい何の「信号」なのかということについて、わからないままにあれこれ思ったことを、書いてみていたのです。
 すると最近になってひょんなことから、賢治と鳥との専門家でいらっしゃる方から、「雁は冬鳥なので、日本列島では繁殖行動は見られないのですよ」ということをご教示いただきました。
 それで、この作品についてどう考えたらよいか、ちょっと思案中なのです。

 で、まずはその作品全文をご紹介しますね。

    雲の信号

あゝいゝな、せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸だつて岩鐘だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
  そのとき雲の信号は
  もう青白い春の
  禁慾のそら高く掲げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる
                  (一九二二、五、一〇)

 詳しくは「雲の信号」詩碑のページをご参照いただくとして、簡単に言うと私は、「春谷暁臥」(「春と修羅 第二集」)においてそうだったように、この「雲の信号」という作品においても作者は、春の鳥たちの繁殖行動のことをほのめかしているのではないか、と思っていたのです。
 しかし、先に述べたように、「雁」の繁殖行動は日本では行われないとなると、この考えは成り立たなくなります。お恥ずかしい無知な「解釈」でした。

 しかしその後、「雁」の生態についてもう少し調べてみると、この作品の日付となっている「5月10日」などという時期に、花巻近辺で雁が見られるということ自体が、ちょっとありえなさそうなのです。
 一般に言われる「雁」とは、生物学的分類では、「マガン」、「ヒシクイ」、「カリガネ」など、カモ目カモ科で「鴨」より大きな水鳥の総称なのだそうですが、「全国ガン・カモ類飛来情報」という素晴らしいデータベース的HPでは、北海道・東北地方の83ヵ所で観測された、ガン、カモの情報が集積されていて、とても参考になりました。
 このHPによれば、「花巻市の水田」において観察される雁は、

■ マガン.出現期間 2月 - 3月上旬.最大個体数 43. 1992年2月16日1,500渡来. ■ 亜種ヒシクイ.出現期間 2月 - 3月上旬.最大個体数 1,330. 積雪が少ない年は1月に渡来することがある

ということで、その渡来地の状況は、

○春, 水田の積雪が消え始めるころに最初の群れが渡来する. 比較的短期間滞在するものが多いようである. ○花巻空港周辺の水田を採食地として利用することが多い. ○朝7時45分頃に決まって同じ水田に渡来し, 夕方5時40分頃に南方面(伊豆沼?)に向かう. ○夜間の行動についてはよくわかっておらず, 塒(ねぐら)の所在地についても断片的な情報しか得られていない

とされています。花巻で雁の仲間(マガン、亜種ヒシクイ)が見られるのは、だいたい2月から3月上旬まで、ということなのですね。(「花巻市水田」参照)
 2002年の観測データを点検しても、花巻で雁が見られたのは2月27日まで(亜種ヒシクイ)であり、さらに本州で見られた最後は、青森県小川原湖湖沼群における3月25日(亜種ヒシクイ)となっています。北へ帰る途中で立ち寄る北海道では、4月下旬からまれに5月初頭に見られることもあるようですが、やはり花巻に5月10日に現れるというのは、通常の渡りのスケジュールからは、無理のようです。

 となると、作品「雲の信号」において、「今夜は雁もおりてくる」と書かれているのは、いったいどういうことを指しているのか、ということが謎になってきます。
 以前に nenemu さんは、賢治の他の作品に登場する「もず」は地元の方言による呼称であって、標準和名では「ムクドリ」のことを指していると教えて下さいましたが、ここで出てくる「雁」も、一般に言う「雁」とは別の鳥のことなのでしょうか?
 あるいは、「今夜は雁もおりてくる」というのは、賢治がふと思い描いた一種のファンタジーなのでしょうか?

 いずれにしても、5月10日の暖かい春の日を背景としてならば、現実の鳥であれ、想像上の鳥であれ、繁殖活動にいそしんでいてもよさそうな気もしますが、私にはやはり謎なのです。

雁(Wikimedia Commons より)
雁 (Wikimedia Commons より)