伊勢神宮から延暦寺へ

  • 内容分類: 雑記

 下のような本を見かけました。

神と仏の風景「こころの道」―伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで (集英社新書 456C) (集英社新書 456C) 神と仏の風景「こころの道」―伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで (集英社新書 456C)
廣川 勝美
集英社 2008-08-19
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 「伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで」という副題が、1921年(大正10年)の賢治父子の旅行を連想させたので、思わず読んでみました。ここで、この本をことさら皆様にお勧めしようというわけではありませんが、これから関西地方の神社仏閣を巡ってみようという方には、これまでとはちょっと違った案内本になるかもしれません。

 ところでこの本は、ある種の「壮大な」計画と連動したもので、その計画とは、明治初頭の「神仏分離」以前にあった「神仏同座」「神仏和合」の精神を復興させ、神社と寺院の両方を包括した一大「巡礼路」を作ろうというものです。その趣旨に賛同した関西150の社寺が、今年3月に「神仏霊場会」を設立し、9月からは「神仏霊場 巡拝の道」というルートが正式に発足して、専用の「朱印帳」も作られています。
 「巡拝の道」は、まず「特別参拝」と位置づけられた伊勢神宮から出発して、和歌山県、奈良県、大阪府、京都府、滋賀県と巡り、最後を150番目の延暦寺で締める、というコースになっています。それで、この本の副題は「伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで」というわけですね。
 昔から全国の各所にある「七福神巡り」というのも、仏教系の(インド由来の)神(諸天)と日本古来の神が混在していますが、それを何十倍かの規模にしたような感じでしょうか。150の加盟寺社の内容は、こちらのページなどで紹介されています。

 賢治父子は、今回のこの巡拝路とは違って、伊勢神宮に参拝した後に、直接比叡山延暦寺に向かいました。しかし、その翌日に参拝しようとした叡福寺や、実際に参拝した法隆寺、奈良で参拝したと推測されている春日大社も、この巡拝路にはちゃんと含まれています。
 ただ、出発点となる伊勢神宮は「特別参拝」ということで、150社寺による「神仏霊場会」には加わっていないようです。やはり神道の元締めとしては、「神仏和合」などということに、諸手を挙げては賛同できないということなのかと思ったりします。

 また、150のうち仏寺は90あるのですが、その宗派の内訳は、真言宗系が34、天台宗系が29と圧倒的に多く、それ以外では南都仏教系が9、臨済宗系が7、真言律宗系が5、修験宗系が3、融通念仏宗が1、浄土宗と真言宗または天台宗の並立がそれぞれ1、となっています。臨済宗系を除くと、いわゆる鎌倉仏教系の宗派の寺院はほとんど入っていません。
 つまり残念ながら、賢治が信仰した日蓮系の寺や、父政次郎氏が信仰した浄土真宗の寺は、この巡拝路には加わっていないわけです。
 仏教も新しくなるほどに、その教義は確固としたものになり、逆に言えば「融通無碍」ではなくなるということでしょうか。親鸞は「神祇不拝」で有名ですし、日蓮に至っては、もはや仏教の他宗派とも協調する余地はありえませんでした。

 しかし、一般庶民の間ではそうでもなかったようで、親鸞も日蓮も、それぞれに「伊勢神宮に参拝して霊験を現した」という「伝説」が、近世には広く受け容れられていたようです。
 親鸞の場合は、伊勢神宮に参詣しようとする前夜の神官の夢に神宮が現れて、「明日やってくる僧を瑞垣の内に入れよ、対面せん」と告げたという話があります(『高田開山親鸞聖人正統伝』)。
 また日蓮の場合は、比叡山を下りて関東へ向かう途中、伊勢・間の山の常明寺に百日籠って「発誓弘経」したところ、百日目の暁に皇太神宝殿の扉が自ずから開き、天照大神が獅子の座から「善哉々々法華経の為によく来れり」と勅したなどの話があります(博文館『帝国文庫』所収「高僧実伝」)。

 これらはもちろん史実ではないのでしょうが、政次郎氏が愛読していたという『帝国文庫』などを通じて、父子ともに親しんでいた話だろうと思いますし、二人が伊勢神宮に参拝する時には、念頭にあったことでしょう。
 すなわち、父子が関西旅行で訪ねた(訪ねようとした)親鸞・日蓮の聖蹟は、延暦寺と叡福寺だけではなくて、伊勢神宮にもその要素は一応あった、という話です。