二見浦と伊勢

二見浦の日の出

 昨日から今日にかけて、二見浦と伊勢神宮に行ってきました。
 上の写真は、今朝の二見浦です。日の出のしばらく前から浜に出てその時を待っていたのですが、予定時刻をかなり過ぎて、やっと厚い雲の上から、太陽の一片が顔を出したところです。

 賢治が1921年(大正10年)4月に父政次郎と伊勢神宮に参拝した後、この二見浦の旅館に泊った際にも、

       ※ 二見
774 ありあけの月はのこれど松むらのそよぎ爽かに日は出んとす。

という歌を詠んでいて、この「日の出の名所」において朝日を見るために、松林の続く海岸へ出てみたことが推測されます。

 そして、この海岸に出てみるとわかることなのですが、上の写真にある「夫婦岩」をバックに日の出を見ようとすると、どうしても「二見興玉神社」という神社の境内に立ち入ることになります。下の写真の鳥居をくぐって進み、少し右にカーブしたあたりから、夫婦岩が見えるのです。

二見興玉神社

 すなわち、やはり賢治はこの朝に、計画的であったかどうかはともかく、結果的には二見興玉神社にも詣でていたのではないかと思うのです。
二見蛙 そして、この神社の境内は、ほんとうにどこも「蛙、蛙、蛙・・・」なんですね。そのそもそもの由来は、二見興玉神社の祭神である猿田彦命が、邇邇芸尊の天孫降臨に際して道案内の役割を果たしたことから、「道中安全の神」として信仰を集めて二見蛙いたことによるのだそうです。そこから、この神社に「無事カエル」ことを祈願した人が、帰還後に加護を感謝して、様々な蛙を奉納してきたために、徐々に境内には蛙があふれることになったのです。

 賢治がこのような蛙を目にしていたかどうかはわからないのですが、松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出る直前に「二見文台」を作り、帰還直後に二見を訪ねるという行動をしたのは、やはり「無事カエル」ことを祈願してであったのだろうということを、俳人の小澤實氏が書いておられました。詳しくは、今年のお正月に「謹賀新年・二見浦」という記事でご紹介させていただいたとおりです。

 問題は、父政次郎が家出中の賢治をここに連れてきたことにも、そういう隠された意味(「息子が無事(家に)カエルように・・・」)があったかどうなのかということですが、伊勢神宮参拝の後に二見浦に宿泊するというのは、ごく一般的な観光ルートですから、あまり意図的と決めつけることもできなさそうです。

二見蛙と夫婦岩

 さて朝食をすませると、賢治が1916年(大正5年)修学旅行において宿泊した、「二見館」という旅館のあった場所に行ってみました。
 賢治自身が、盛岡高等農林学校の「農学科第二学年修学旅行記」において、伊勢神宮から二見浦に至る部分を担当して、次にように書いています。

二見ヶ浦に向ひ直ちに立石に行けば折りから名物の伊勢の夕凪にて一波立たず油を流したるが如き海上はるかに知多の半島はまぼろしの如くで其の風景の絶佳云はん方なしだ。一同二見館に宿り翌朝日の出を拝し静なる朝凪を利用して汽船にて三河国蒲郡に着し直ちに東京に向つた。

 上記で、「立石」というのは「夫婦岩」のことで、あるいはこの辺の海岸を「立石浜」と言うことから、浜辺に出たことを指しているのかもしれません。
 そして、下から二行目に出てくる「二見館」という旅館は、つい最近までは営業していた由緒ある旅館だったのですが、1999年(平成11年)に休業してしまいました。

二見館

 上の写真は、その旧「二見館」の玄関側にあたる場所です。現在も立派な大きな木造の建物が残されていて、もったいないような感じです。
 また、この建物の向こう側には、「賓日館」というさらに見事な建築があり、これも一時は「二見館別館」となっていたそうですが、二見館の休業後は二見町の所有となり、合併によって伊勢市に引き継がれています。

 二見浦を後にすると、伊勢神宮の外宮と内宮、それから賢治父子の旅行にならって、「神宮徴古館」「神宮農業館」を見てまわりました。
 「神宮徴古館」(下写真)の建物の外壁は創建当時のままということで、賢治もこの立派なエントランスをくぐったわけです。前に広がる庭園と併せ、とても威厳のある美しさを保っています。

神宮徴古館


 というわけで、暑い一日にたくさん歩きまわってきましたが、「かえる」のおかげで、最後は無事、家に帰り着くことができました。

二見かえる(二見興玉神社)