あけましておめでとうございます。
お休みにもかかわらず更新の間隔が少し空いてしまいましたが、12月30日から今日まで、田舎に帰省しておりました。西日本では、ほとんど年末まで穏やかな日和がつづいていたところ、最後の大晦日になってぐっと冷え込み、雪もちらついたのです。
振りかえれば、昨年は十分に記事の更新ができず、ほとんど週に2回できればよい方、という感じになっていました。今年こそは、せめて週3回くらいをめざします、と言いたいところなのですが、それも個人的な事情でなかなか難しいところがあります。
しかし、何とか頑張って地道に書きつづけていきたいと思いますので、どうか愛想をつかさずに、今年もよろしくお願い申しあげます。
ところで上の写真は、伊勢の二見浦の日の出の様子です。と言っても、こんな素晴らしい写真を私が撮影してきたわけではありません。今日乗った新幹線の中で、『ひととき』という車内誌の1月号をパラパラとめくっていると、小澤實さんという俳人が、「芭蕉の風景」と題したエッセイで、「二見浦」を取り上げておられたのです。
小澤氏によると、「おくのほそ道」の旅に出る直前に芭蕉は、「二見文台」と呼ばれる文台(俳諧の席で、句を記録する懐紙を置く台)を作らせたそうです。台の表には、「二見浦の夫婦岩の初日の出」の図を描かせ、台の裏には、「うたがふな潮(うしほ)の花も浦の春」という句を、みずから墨書しました。句意は、「夫婦岩に潮が散って花のように見える。疑ってはならない、それは二見浦の新春を示すもの、疑ってはならない。めでたい浦の景色は伊勢二見の神そのものを表すものでもある、けっして疑ってはならない」というものだそうです(小澤實氏による)。
それからもう一つ、こちらの方が有名な句だと思いますが、「おくのほそ道」の結句は、「蛤のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ」というものです。この「ふたみ」には、蛤の「蓋と身のように」別れがたきを別れるという意味と、この後つづけて芭蕉が向かおうとしていた伊勢の「二見」が掛けてあるのですが、「おくのほそ道」の直前と最後に「二見」が登場するのには、何か特別な理由があるのでしょうか。
この疑問を解くべく、小澤氏は、二見浦の海岸にある「二見興玉(おきたま)神社」に注目されました。この神社は、神武天皇を大和へ案内した猿田彦命を祭神としていることから、「道中安全」の御利益があるとされ、旅に出る人々が無事に「帰る」ことを祈ってたくさんの「蛙」の石像を奉納するために、それらは「二見蛙」と呼ばれるようになっています(「二見蛙」についてはこちらのページも参照)。
つまり芭蕉は、自分と曾良が奥州へ遙かな旅をするにあたって、無事な帰還を二見の神に祈り、その旅から帰り着くや、神への感謝を捧げるためにまたすぐに二見に赴いたのではなかったかというのが、小澤氏の推論です。新春早々、とても興味深く読んだエッセイでした。
家に帰ってちょっとネットで調べてみると、太平洋戦争の時にも、「無事カエル」ことを祈って、陶製の小さな「二見蛙」の御守りを持って出征した兵士が多くあったようですね。
さて、そこで連想したのが、賢治が家出中の1921年に、父政次郎に誘われて、伊勢神宮→比叡山延暦寺→法隆寺、という関西旅行をした際のことです。
賢治が法華経に凝り固まり、父祖の浄土真宗に反発するあまり家出をしてしまったものですから、父の政次郎氏は何とかして息子の宗教的視野を広げて冷静にならせるべく、この旅行のプランを立てたようです。延暦寺は、日蓮も親鸞も若い時に修行をした地であり、「法華と念仏が一体であるという教え」を具現化した「にない堂」という建物もある所ですから、まさにうってつけの宗教的意味を持っています(「根本中堂」歌碑のページも参照)。また、法隆寺は言うまでもなく日本の仏教の伝説的始祖というべき聖徳太子の創建であり、ここで政次郎氏は賢治に次のように語ったと言うことです(関登久也『宮沢賢治物語』)。
千三百年も前に聖徳太子がお建てになったこの寺が日本仏教発生の地として、そのまま残っていることは有り難いことだ。太子は釈迦をまつり、その脇に観音をまつり、御母の冥福のためといって阿弥陀仏をまつっておられる。これは太子の仏に対する信仰のあり方であろう。
さらに、政次郎氏は法隆寺に行く前に、聖徳太子墓所のある大阪府の叡福寺にも参詣しようと計画していたようで、ここもまた、親鸞も日蓮も参籠修行したことがあるとの言い伝えがある寺だったのですが、ここは交通や時間の関係で中止したようです。
つまり、この旅行で参詣した(しようとした)寺院に関しては、日蓮と親鸞、法華と念仏が、実は元をたどれば根は同じところにあるということを、仏教史的に示唆してくれる場所が、周到に選ばれていたわけです。
しかし、「伊勢神宮」だけは、さすがにちょっと異質な感じはします。それでも、いくら「法華経一直線」だった当時の賢治といえども、天皇や国家神道は尊崇していたわけですから、日本の宗教的ルーツに触れさせて「法華経を相対化させる」ということで、伊勢参りにも意味があると政次郎氏は考えたのかな、などと思っていました。
ところがここでちょっと年譜を見直してみると、この時、父子は伊勢神宮を参拝した後に、二見浦の旅館に泊まったのです。
伊勢参宮。ここも雨であった。外宮参拝後(中略)、内宮に詣でる。それより二見ヶ浦に出、海辺の旅館に入り、父子二人枕を並べて寝た。このときの短歌「伊勢」一二首。
第三日、二見浦駅より京都行にのり大津駅下車。(『【新】校本全集』年譜篇)
この時に、賢治は下のような短歌を詠んでいて、二見浦の海岸で日の出を見たようです。したがって、海岸ですぐ目の前にある「二見興玉神社」にも、ついでに参った可能性は、十分にあるわけです。
※二見
774 ありあけの月はのこれど松むらのそよぎ爽かに日は出でんとす。
そして、もし政次郎氏が、この二見興玉神社の御利益が「無事帰る」ということだということをあらかじめ知っていたとすれば、賢治をわざわざこの海岸に連れてきた理由が、十分に得心できるものになります。
どうか息子が、何とも厄介な「家出」から、早く家に「カエル」ようにと、父はぜひとも祈願したかったのではないかと、私はふと思ったのです。
あっぷる すくらっふ
あけましておめでとうございます。
新年そうそう、私のふるさとの話題で感激しました!
>どうか息子が、何とも厄介な「家出」から、早く家に「カエル」ようにと、父はぜひとも祈願したかった・・・
そうかもしれません!きっと!(^O^)
雲
寒中お見舞い申しあげます。
ご実家は、伊勢なんですか。
ヘルパーさんに、お聞きしたのですが、一年中、しめなわが、飾られてるとか。
大阪では、飾らないかたが、増え、手作りのしめなわが、とうとう、手に入りませんでした。
急きょ、ダイエーに駆け込みました。
共働きで、忙しいと、お正月の習慣もない家庭が、多いので、去年は、若いリハビリの先生に、ばかにされる一件もあり、バタバタしました。
夫婦岩だったんですね。
見たことのある風景です。
名前と、やっと、一致しました。
今年も、よろしくお願いします。
hamagaki
>あっぷる すくらっふ 様
あけましておめでとうございます。新年早々コメントをありがとうございます。
このあたりが故郷でいらしたんですか。信仰心もない私ですが、伊勢周辺には、やはり何とも言えない魅力を感じます。
今年中に、一度は訪ねてみたいというのが、年頭にあたっての目標です。
今年もよろしくお願い申し上げます。
>雲 様
まぎらわしい書き方ですみませんでした。私の田舎は伊勢ではないのですが、帰省の途中の新幹線で見た雑誌に、たまたま二見浦が載っていたのでした。
お正月らしい美しい景色なので、年の始めの記事を飾らせていただいたのです。
ところで「しめなわ」と言えば、上の写真の「夫婦岩」の間にも張り渡されているのが見えますが、1本が長さ35m・太さ10cm・重さ40kgのものが、5本も張られているのだそうです。
塩見洋
昨年はhamagakiさんの情報を辿る形で
甲府でお目に掛かれて嬉しかったです。
今年もどうか宜しくお願いいたします。
記事更新、再々でなくとも構いません
ので、末永く頑張ってくださいませ。
私は昨29日から昨日まで、比叡山麓の
実家に戻っておりました。母校の隣の
清荒神に火防せのお参りに向かった後、
ついでに寺町丸太町下るの下御霊神社
で初詣しました。おみくじは吉でした。
伊勢・二見は京都の小学校の修学旅行
で行く所で、それ以来出掛けてません。
新年早々いい話題を読ませていただき
感謝しております。
hamagaki
塩見様、あけましておめでとうございます。
昨年は、初めて直接お会いすることができて、私も願いがかないました。
お正月は、帰省しておられたのですね。私もちょっとあの辺りは離れてしまいましたが、12月の「全国高校駅伝」のテレビ中継では、久しぶりに白川通り沿いの懐かしい景色を見ることができました。「清荒神」のあたりも風情がありますね。
今年も、よろしくお願い申し上げます。
かぐら川
服喪中につき新年のあいさつは遠慮させていただきますが、本年もよろしくお願いいたします。
小沢實さんの「二見文台」の話とても興味深く読ませていただきました。
ところで、二見興玉神社の祭神・猿田彦命は、大田神とも呼ばれていて、先日の胡四王山の記事に紹介していただいた「胡四王大権現社由来併ニ御免状写由緒書上帳」中の“大田神”とつながって、もちろん直接関係はないのですが、この点も興味深く思いました。
久しぶりに森まゆみさんの『一葉の四季』をペラペラめくっていましたら「バラとマグノリア」の項があり一葉の日記〔明治25.5.18〕に「ばら新、美香園にばらを見る。」の記述があることを知りました。萩の舎の同人小笠原艶子の家というより屋敷?が動坂にあってそこを訪ねたのである。また日記には、小笠原家から萩の舎に「マキノーリア」という「名はこちたけれどうるはしき花」が贈られた記述もあるようです〔明治24.6.9〕。
hamagaki
かぐら川 様、コメントをありがとうございます。こちらこそ、今年もよろしくお願い申し上げます。
「大田神」とは、「猿田彦命」のことだったんですね。自分で文章を引用しておきながらちゃんとわかっていませんでした。ご教示ありがとうございます。現在もその神が祀られている場所は、ヤマトの権力が次第に「辺境」へと支配を広げていった軌跡と、関係しているんでしょうかね。
「バラとマグノリア」とは、何となく賢治を連想させる花の組み合わせですが、最相葉月さんの『青いバラ』という本に、昔の「ばら新」の話が出てきます。
「バラ育種の神様」と呼ばれた故・鈴木省三氏は、「グルス・アン・テプリッツ」という品種を「賢治のバラ」として一躍日本中に広めた人ですが、実はその鈴木省三氏が生まれて初めて出会ったバラが、「父親が駒込動坂の「ばら新」というバラ専門業者で一株二百円で購入した<グルス・アン・テプリッツ>だった。」という不思議な縁があったそうです。
明治時代の多くの文化人は、いかにも西洋的で華麗な「バラ」という花に、かなりの興味を引かれていたようですね。
雲
ご説明ありがとうございます。
しめなわと夫婦は何か、関連があるのでしょうか。
考えたことが、ありませんでしたが。
最近は、結婚式をあげる前に、暮らしてらっしゃるし、式は挙げたが、入籍はしてません。という、自由な時代なので、おごそかな、写真を観る、新春でございました。
バラは、なんとなく、恋や情熱をイメージする花なのかもしれません。
「銀河鉄道の夜」を読んでおりましたら、野茨、と、出てまいりました。
母も失語症や右半身マヒで、不自由になったせいか、「バラが咲いた」が好きで、言語リハビリの先生に協力していただきました。
若い仕事する女性のせいかどうか、わかりませんが、「寂しい歌だね」と言われてしまいました。
それでは、また、よろしくお願いします。