桂橋際の「万甚さん」(2)


(A) 万甚本店, (B) 万甚別館

 現在の呼び方では、「八条通」が桂川を渡る橋が「桂大橋」ということになるのですが、その昔、まだここには橋が架かっていない時代には、ちょうどこの場所で、舟による「渡し」が行われていたのでした。
 山陰や丹波の方から京都に入るこの道は「山陰街道」と呼ばれ、桂川の西側は、「下桂今戸」という宿場町として栄えていたということです。特に江戸時代には、参勤交代の大名行列もこの渡し舟を利用し、毎年莫大な舟賃を地元に落としていきました。渡しの付近には、「兵衛」という人が創業した「万甚」をはじめ、他にも「柏平」など三軒ほどの旅籠屋が立ち並び、往還の旅行者を相手に繁盛していたということです。

桂大橋たもとの常夜燈 江戸時代も終わり近くの弘化3年(1846年)には、地元の関係者が出資して、渡し舟の安全航行のために石造りの大きな「常夜燈」を建てました。この常夜燈は、現在も桂大橋の西詰に残っていて、往時を偲ばせます(右写真)。
 高さ3mもある石燈籠は、「川の灯台」とも言うべき存在として、夜の渡し舟からも確かな目印となったことでしょう。
 先日、「桂橋際の「万甚さん」(1)」でご紹介した写真では、桂橋の南側に常夜燈が見えましたが、現在はこれは北側に移動されています。

 そして、この常夜燈の台座部分には、これを建てるために出資をした人々の名前が刻まれているのですが、下の写真のように、「万屋甚吉」「万屋嘉助」という名前も見えます。この人たちは、旅籠屋「万甚」の経営者一族と思われます。

常夜燈の台座

 明治に入ると、大名の参勤交代もなくなり、また正確な年代は不明ながら、明治初期のうちに桂川にもついに「土橋」が架けられました。これをもって渡し舟はその役割を終えて、「舟仲間」「浜方」は解散します。
 しかしそれでも街道筋の店々は、薬、豆腐、饅頭などの新しい商売を始め、賑わいは続いていました。

 旅籠屋「万甚」が、旅館業だけでなく高級料亭として営業を拡大していったのも、この頃のことと思われます。そして、明治16年(1883)にここで創業した饅頭屋が、現在までその「のれん」を守っているのが、街道筋南側で桂橋から二軒目にある、「御菓子司 中村軒」です。
 下の図は、中村軒のお女将さんがコピーをしてくださった、大正時代頃の桂橋から山陰街道筋の商店街の一部です。

大正期桂商店街

 この図で、桂大橋(桂橋)の西端の南角には、赤枠で囲んだ「万甚別館(料理旅館)」があり、また少し西へ行った街道の北側には、やはり赤枠で囲んだ「万甚本店」があります。
 賢治たち修学旅行生が訪れたのが、この「万甚」であるとして、その「本店」と「別館」のどちらだったのかということが問題ですが、「本店」の方は、桂離宮から流れ出る川の水を引き入れて料理をし、部屋の窓からは借景として離宮の建物も見えたという、品格の高い料亭だったのに対して、「別館」の方は、一般の旅行客を相手に、食事を出したり宿を提供したりする「料理旅館」で、二階には広間もあったということです。
 したがって、何十人かの修学旅行生を一度に入れて食事を出すのなら、「万甚別館」の方だっただろうというのが中村軒のお女将さんのご意見で、私自身もそう考えます。「桂橋際」という表現にも、別館のあった位置の方が、ぴたりと当てはまります。

 残念ながら、現在は本店も別館もその建物は残っておらず、本店は昭和初期頃に、近くから出火した火事で全焼してしまい、跡地はその直後に宮内省によって買い取られ、現在は桂離宮の敷地の一部になっています。
 「万甚別館」も、戦後まもなくに廃業し、その建物は一時、川向かいの「帝国化成」という会社が買い取って社員寮にしていたそうですが、現在は取り壊され、跡地は生コン会社の社長さん宅になっています。

 というわけで、下の写真が、「万甚別館」の跡地の現在の様子です。正面が、「万甚別館」があった場所です。右端の電柱の奥の瓦屋根の建物は、「御菓子司 中村軒」です。

「万甚別館」のあった場所


 さて、ここまでの文章において記してきたように、賢治たち修学旅行生一行が訪れたと推測される店の名前は、地元の人にお聴きするかぎりでは、「万甚楼」ではなくて「万甚」でした。前回の記事でご紹介した写真の説明も、「料亭「万甚」」となっていました。
 『【新】校本全集』年譜篇などこれまでの文献では、この店の名前は盛岡高等農林学校「校友会報」に掲載された「修学旅行記」をもとに、「万甚楼」とされていましたが、今回の結果と少しだけ違っています。この点については、いずれあらためて調べてみたいと思っています。

 最後にもう一つ、中村軒のお女将さんは、下のような写真もお貸し下さいました。
 これは南側の上空から撮影されたもので、交差点の角の大きな屋根の建物が、後ろ側から見た元「万甚」の建物です。この時点では、上述のようにすでに別会社の社員寮になっていて、裏庭には洗濯物が干してあります。
(写真をクリックすると、別ウィンドウで拡大表示されます。)

桂橋・山陰街道と万甚別館