若き日の最澄(1)

「若き日の最澄」 先週、滋賀県側の坂本から比叡山を越えてみましたが、その際に起点としたJR「比叡山坂本」駅の前には、「若き日の最澄」と題された銅像が建っていました(右写真)。
 この像は、785年(延暦4年)、19歳の最澄が比叡山に登って山林修行を始めた頃の姿をかたどったものとされています。

 山に入った最澄は、小さな草庵を結び、その毎日は、

松下巌上に、蝉声と梵音の響き(読経の声)を争ひ、石室草堂に、蛍火と斜陰の光を競へり。

というものだったと、『叡山大師伝』は書いています。

 そして、その3年後の788年(延暦7年)、最澄が比叡山中に「中堂」を建てるにあたって詠んだという歌が、『新古今和歌集』の「巻第二十 釈教歌」に、収録されています。

    比叡山中堂建立の時                       伝教大師
阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせたまへ

 阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)とは、梵語で「無上の真実なる完全な悟り」の意味で、<無上正等覚><無上正真道><無上正遍知>などと漢訳されるということです(『岩波仏教辞典』)。
 若き最澄は堂を建てるにあたり、無上の仏たちに比叡山への加護を祈ったということでしょう。

 ところで、この最澄の歌を見るとどうしても連想してしまうのが、賢治が父との旅行において比叡山根本中堂に参拝した時に詠んだ、次の歌です。(なお、下の表記で「正遍知」の「遍」は、原文では「ぎょうにんべん(彳)」に「扁」です。)

    比叡
    ※ 根本中堂
ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまへ。 (775)

 上記の二つの歌が似ているのは、比叡山根本中堂という舞台設定もさることながら、どちらも上の句では漢語調の特殊な仏教用語を連ねて「仏(たち)」に呼びかけ、下の句ではその仏(たち)に対して、「・・・たまへ」という形で、願いを述べているという構造にあります。また、「阿耨多羅三藐三菩提」の漢訳が「無上正遍知」であることも、関連を示唆するような気がします。

 私が思うには、賢治は『新古今和歌集』に載っている最澄の上記の歌を知っていて、比叡山において「大師」への思いをはせながら大師自身の歌を下敷きにしつつ、「ねがはくは・・・」の歌を詠んだのではないでしょうか。

 ちなみに、上記の最澄の歌は、当時から「本歌取り」される傾向があったようで、「小倉百人一首」にも入っている僧慈円の

おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣に墨染めの袖

という歌などが、その典型です。ここで、「わが立つ杣」とは、一般的な杣山のことではなくて、他ならぬ比叡山のことなのです。


 ところで、賢治の歌にある「大師のみ旨」とは、最澄が比叡山入山にあたって書いた「願文(がんもん)」のことを指していると言われていますが、その「願文」の最後の部分は、下のようになっています。

 伏して願はくば、解脱の味、独り飲まず、安楽の果(このみ)、独り証せず、法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味を服せん。若しこの願力に依りて、六根相似の位に至り、若し五神通を得ん時は、必ず自度を取らず、正位を証せず、一切に著せざらん。
 願はくば、必ず今生の無作無縁の四弘誓願に引導せられて、周く法界に旋らし、遍く六道に入り、仏国土を浄め、衆生を成就して、未来際を尽すまで、恒に仏事を作さんことを。

 賢治ならば、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と述べたと同じような、衆生済度に懸ける最澄の決意が述べられています。そして、ここに出てくる「伏して願はくば・・・」「願はくば・・・」という言葉も、賢治の「根本中堂」の短歌が、「ねがはくは・・・」から始まっていることに、影響しているのではないかと思います。


 さて、賢治が作品中で「若き日の最澄」に言及した例としては、「」(「春と修羅 第二集」)の先駆形「海鳴り」の中の、「伝教大師叡山の砂つちを掘れるとき・・・」という一節がありますが、これについてはまた、稿をあらためて考えてみたいと思います。

「根本中堂」歌碑