ヨハネ、ヨハンネス、ジョニー、セントジョバンニ…

 先日は、「銀河鉄道の夜」の主人公「ジョバンニ」と、「使徒ヨハネ」のつながりについて少し触れてみましたが、じつは賢治の他の作品にも、この「ヨハネ」の系列の名前は、けっこうたくさん出てくるのです。

 まずは、「水汲み」(「春と修羅 第三集」)ですが、この作品では、

向ふ岸には
蒼い衣のヨハネが下りて
すぎなの胞子(たね)をあつめてゐる

として登場します。これは、賢治が「下の畑」で農作業をしている際に、北上川の「向ふ岸」に見えた情景で、「すぎなの胞子(たね)をあつめてゐる」というのは、「つくし」を採っているのでしょう。
 この詩には、高田三郎氏が曲を付けて素晴らしい合唱曲にしていますが、自らそのCDに付けた解説文の中で高田氏は、

 第三節には、
      向ふ岸には、蒼い衣のヨハネがおりて
      すぎなの胞子(たね)をあつめている  と、
「十二使徒の中でひとりだけ若く、十字架の下(もと)にもいて、年をとってから福音書を書いた、イエスがもっとも愛しておられた弟子」。賢治は、向う岸へ下りてきた少年を見て、このヨハネを連想したのであろうか。

と述べておられます。
 まさにそのとおりだろうと思います。


 それから次は、「春 水星少女歌劇団一行」(補遺詩篇 I )です。この作品は、冒頭から

(ヨハンネス! ヨハンネス! とはにかはらじを
 ヨハンネス! ヨハンネス! とはにかはらじを……)

と、少女たちによる祈りのような言葉で始まります。「ヨハンネス」とは、「ヨハネ」のラテン語形の‘Johannes’ に由来するのでしょう。また、途中で登場する男性の名は「ジョニー」ですが、これも「ヨハネ」の英語形‘John’ の愛称です。
 そして最後の方では、セニヨリタスという死火山(岩手山の虚構化?)の山頂に、その「ヨハンネス」が居るとジョニーが述べていますが、これははたして本気で言っているのか、少女たちをからかっているのか、何とも言えません。
 ちなみにジョニーは、「おゝ燃え燃ゆるセニヨリタス/ながもすそなる水いろと銀なる襞をととのへよ/といってね」などと口達者なところをのぞかせていて、おそらく彼は歌劇団付きの「活弁士」という設定なのではないでしょうか。(上の「口上」の原形とおぼしきものは、「遠足統率」の最後にあります。)

 歌劇団の少女たちが「ヨハンネス」に祈っているのは、「永遠の不変」ということのようで、これだけでは、「何が」変わらないように祈っているのかは不明です。しかし、作品中の会話から、彼女たちのあふれるような躍動感と無邪気さを感じるにつけ、この「若さ」の不変こそが、少女の祈りに値するものと思えます。「いのち短し恋せよ乙女……」といったところですね。
 ところで、聖書に出てくる重要な「ヨハネ」には、「洗礼者ヨハネ」と「使徒ヨハネ」の二人がいるということは、前回も述べたとおりです。この作品において少女たちが祈りの対象としている「ヨハンネス」は、どちらの聖者なのだろうかと考えると、私としてはやはり「銀河鉄道の夜」の「ジョバンニ」と同じく、これは「使徒ヨハネ」の方ではないかと思うのです。
 「洗礼者ヨハネ」とは、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物とし(マタイ3:4)」、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と、「荒野で叫ぶ者」でした。彼は「不変」ではなくむしろ「激変」を警告する預言者であったのに対して、「使徒ヨハネ」の方は、一時は「不死」の伝説まであったというからです。「とはにかはらじ」との祈りを捧げる聖人としては、後者がよりふさわしいのではないでしょうか。

 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだ「使徒ヨハネ」Peter Nicolai Arbo(1866)としても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。」 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。(ヨハネ21:20-23、新共同訳)

 もちろん、実際に使徒ヨハネは不死であったわけではありませんが、聖母マリアを引きとった後、十二使徒の中で唯一人殉教せずに、高齢まで生きたと言われています。


 そして最後は、童話「ひのきとひなげし」です。このお話は、まっ赤に咲き乱れる「ひなげし」たちが、もっと美しくなりたいと願うあまり、あやうく悪魔の策略に引っかかりそうになるのですが、ひなげしたちを見守っている「ひのき」のおかげで事なきを得るというものです。
 ひのきは、悪魔が化けた医者が言葉巧みにひなげしを騙そうとする場面で、横から次のように介入します。

「おゝい、お医者や、あんまり変な声を出してくれるなよ。こゝは セントジョバンニ様のお庭だからな。」 ひのきが高く叫びました。
 その時風がザァッとやって来ました。ひのきが高く叫びました。
「こうらにせ医者、まてっ。」

 こうして「にせ医者」は逃げて、ひなげしたちは救われたのです。

 さてここで、ひなげしたちが生えていた場所として、「セントジョバンニ様のお庭」という言葉が出てきました。すでに前回も触れたとおり、「ジョバンニ」とは「ヨハネ」のイタリア語形ですから、「聖ヨハネ様の庭」だったというのです。
 賢治がここで、他の聖人ではなく、とくに「聖ヨハネ」を持ち出した理由はよくわかりませんが、正教の伝承では、使徒ヨハネは晩年に聖母マリアおよびマグダラのマリアとともにエフェソで暮らしたということになっていますから、彼には「女性の庇護者」という位置づけがあるのかもしれません。もしそうであれば、「春 水星少女歌劇団一行」において、少女たちがとくに「ヨハンネス」に祈ることの意味ともつながります。

 さらに、童話「ひのきとひなげし」で興味深いのは、ひなげしたちがお互いにまるで「少女歌劇団」であるかのように会話している、次のような一節です。

 いちばん小さいひなげしが、ひとりでこそこそ云ひました。
「あゝつまらないつまらない。もう一生合唱手(コーラス)だわ。いちど女王(スター)にしてくれたら、あしたは死んでもいゝんだけど。」
 となりの黒斑のはいった花がすぐ引きとって云ひました。
「それはもちろんあたしもさうよ。だってスターにならなくたってどうせあしたは死ぬんだわ。」

 ここに出てくる、「合唱手(コーラス)」や「女王(スター)」という役割づけは、言うまでもなく、現代まで引きつがれている「少女歌劇団」における団員の地位です。ちな宝塚少女歌劇団による「モン・パリ」(1928)みに当時は、1914年に「宝塚少女歌劇団」が、1917年に「東京少女歌劇団」が、1928年に「松竹少女歌劇団」が発足し、さらに大正末頃からは、地方巡業を行う「日本少女歌劇団」や「国華少女歌劇団」なども活動していたということで、少女歌劇という華やかな演芸の勃興期でもあったようです。(Wikipedia「少女歌劇」参照)

 つまり、「春 水星少女歌劇団一行」という詩作品と、「ひのきとひなげし」という童話作品は、「聖ヨハネ」への言及とともに、「少女歌劇団的舞台設定」という点でも、共通しているわけです。前者においては、少女たちの無垢な天真爛漫さが描かれ、後者においては、美への憧れと葛藤、時の移ろいへの不安などという、乙女の対照的な側面が描かれていますが。
 このような少女たちをそっと見守る役割を、賢治は、ヨハンネス、ジョニー、セントジョバンニという様々な名前で、なぜか「聖ヨハネ」に託しているようです。


 あと、ちょっと本題からははずれますが、賢治は1933年7月5日の日付で、「春 水星少女歌劇団一行」の関連作品として、「春 変奏曲、」(「春と修羅 第二集」)を書いています。改稿にしても、改作にしても、作者がもとの日付を踏襲せずにこのような晩年の日付を新たに記入しているのは非常に珍しいことなのですが、ちょうどこの日付の頃の出来事として、面白い記事を見つけました。
 それは、松竹少女歌劇団による、通称「桃色争議」と呼ばれる事件です。この年、松竹の経営側が、少女歌劇部に対して一部楽士の解雇と全部員の賃金削減を通告したのに対して、6月14日、「レビュー・ガール」と呼ばれ少女歌劇部の大部をなす少女部員は、新聞記者らを集めて「絶対反対」の意思を明らかにしました。そして、当時のトップスター水の江滝子を争議委員長にして、翌日から230名が神奈川県湯河原の温泉旅館に立てこもってしまったのです。続いて大阪松竹でも、6月28日から三笠静子(後の笠置シヅ子)はじめ70余名の部員が、公演をボイコットして高野山の一宇に立てこもりました。結局、世論や新聞論調の追い風の中、大阪では7月8日に手打ち式が行なわれ、7月15日東京で「協定文」が読み上げられて、少女たちは実質的な勝利を勝ち取ったということです。
 作品の内容と、少女たちの「桃色争議」とはとくに関係はないのですが、「1933年7月5日」という日付が、まさに争議の真っ最中の時期だけに、何となく興味を引かれました。
 連日の新聞記事で「少女歌劇団」のことを目にした賢治が、ふと思い出して自分の以前の草稿を出してきて読み返すうちに、少女たちの新たな会話が聴こえてきたのかとも思ったり……。