高田三郎「水汲み」

1.歌曲について

 東京音楽学校(現東京藝術大学)の本科作曲部を1939年に卒業した高田三郎は、戦時中にも「山形民謡によるファンタジーと二重フーゲ」(1941)や「風のうたった歌」(1942)を発表しますが、戦後になって展開されたその旺盛な作曲活動は、敗戦後の日本の文化全体にも活気を与えたといっても、過言ではないでしょう。戦後の作曲家のまさに「第一世代」と呼ぶにふさわしい人だと思います。
 なかでも、1948年に同じ世代の作曲家である平尾貴四男、安部幸明、貴島清彦とともに「地人会」という作曲グループを結成して、「西洋および日本の伝統を尊重しつつも、安易に輸出用音楽や虚偽の民族性に寄りかからない態度」を表明し、共同で発表していった作品群は、アイデンティティの動揺にも陥っていた当時の音楽界に、新風を吹き込みました。

高田三郎(1913-2000) 当初は、管弦楽や弦楽四重奏など器楽曲を中心に作曲を行っていた高田三郎ですが、1950年代後半からは合唱曲にその主力を注入するようになります。「水のいのち」(1964)や「心の四季」(1967)などは、現在でも日本の合唱団にとって必須のレパートリーとなり、晩年は全国の合唱団の指揮・指導によっても大きな功績を残しました。
  また、敬虔なクリスチャンとして精魂を傾けた、「ヨハネによる福音」や「典礼聖歌」などの宗教作品も、独自の光を放ちつづけています。

 さて、自らのグループを「地人会」と名づけたことにも表れているように、宮澤賢治に対する高田三郎の造詣は、非常に深いものだったようです。自らの作品に付けた解説を読んでも、この作曲家が賢治の作品や生涯について、いかに深く研究を行っていたかということがわかります。
 しかし、賢治のテキストに直接題材をとった作品としては、1964年の「無声慟哭」と、1969年のこの「心象スケッチ」の二つを残しただけでした。

 前者は、高田三郎が39歳でカトリックの洗礼を受けた後の最初の作品にあたります。洗礼後の「黙想会」の体験によって、「私と『死』との距離は大きくちぢまり、私ははっきりと『死』と向かい合って立つことができるようになった」と感じた高田は、「私が次に向かい合うべきもの、すなわち私の次の作曲目標は、学生のころから心の中に大きくその位置を占めていた詩、宮澤賢治の『無声慟哭』をおいては全く他にないと強く思うようになり」、それから8年をかけて、「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」「風林」「白い鳥」の5楽章からなる、管弦楽と声楽のための作品を書き上げます。

 後にマーラーの「亡き子をしのぶ歌」にも比べられるようになるこの緊張をはらんだ大作とは対照的に、高田三郎が次に生み出した無伴奏合唱組曲「心象スケッチ」は、素朴で平易な形式と内容を持ち、しかし賢治の作品にたたえられた愛情や切なさが、素直に伝わってくるような曲になっています。
 「水汲み」「森」「さっきは陽が」「風がおもてで呼んでいる」という4曲から成る組曲の終曲は、当初は「稲作挿話」になっていましたが、全体のバランスの観点から、1975年に現在の「風がおもてで・・・」に入れ替えられました。
 これらの計5曲について作曲者は、「ここに挙げた五つの作品を私は、旋法的な手法をまじえて作曲したことを書き添えたい。都会的ではなく、田園のものであるようにと。そして賢治のあたたかい心にもふさわしいようにと。」と述べています。

 楽譜に添えた解説の中で作曲者は、埼玉県の農村で夜の真っ暗な中でも農作業をつづけていた農民たちの様子、ドイツの農家を訪れた時に握手した荒れた厚い手の感触について回想し、第一曲である「水汲み」という曲の性格について、また演奏法について、次のように述べています。

 「水汲み」は、そのような農耕労働のひとつの型、同じ動作の無限とも言えるような繰り返しについてである。
 川辺の、あるいは川面の事物の叙述の間に何回も何回も出てくる「水を汲んで、砂へかけて」という繰り返しは、第一回目は元気よく f であるが、回を重ねるにしたがって、つかれて行く。最初の回も、女声だけ残る部分のアルト「砂へかけて」あたりから dim.に加えて多少の rit.もあった方がよいのではなかろうか。二回目は mf である。そしてやはり、男声だけ残るバスの「砂へかけて」からも同様であろう。三回目は mp 。(a tempo)と書かれてあるが(poco meno mosso)くらいの方がよいかもしれない。そしてやはり、多少の rit.。四回目 pp ではもうつかれきっていてもよいのではなかろうか。
 それぞれの楽節の出(ぎっしり、つめたい、向う岸、岸まで)が始めは f であったのが、だんだん mp になり p になって行くのも、そのつかれと関連するのである。
 そして最後に、彼は敷物のようなち萱の芽の上に腰をおろし、頭を上げて遠くの雲を見るのではないだろうか。
 最後のハミングも、tempo をいくらか戻して、また rit.して終るのがよいであろう。

 何度もよく似たフレーズが繰り返し現れ、少しずつ弱く、ゆっくりと歌われるようになっているこの楽曲の構造は、農業労働が本質的に持っている「反復」とか「疲労」という特性を、象徴するものであったわけですね。
 そしてこれはすでに賢治のテキストにも孕まれ、高田三郎の曲によってさらにはっきりと示されていることですが、このような飽くなき反復によって現れてくるのは、たんなる身体的な「疲労」の蓄積だけではなくて、そこでは並行してある種の精神的な「浄化」も、成しとげられていくようなのです。

 そして、それがこの「水汲み」という曲の持つ、独特の「宗教的」ともいうべき雰囲気を醸成しているのでしょう。
 後半に登場する「蒼い衣のヨハネ」について、高田三郎氏は適切にも、ヨハネが「十二使徒の中でひとりだけ若く、十字架のもとにもいて、年をとってから福音書を書いた、イエスが最も愛しておられた弟子」であることから、これを「向う岸へ下りてきた少年」と解釈しておられますが、ここの部分などは、まるで讃美歌の一節ような響きさえたたえているように感じられます。


  この「水汲み」は素朴な小曲ですが、「すべての農業労働を……舞踊の範囲に高めよ」(「生徒諸君に寄せる」)と書くなど、労働そのものを芸術にまで昇華しようとした賢治の思想を、音楽的に具現化した作品とも言えるのではないでしょうか。

2.演奏

3.歌詞

   水汲み

ぎっしり生えたち萓の芽だ
紅くひかって
仲間同志に影をおとし
上をあるけば距離のしれない敷物のやうに
うるうるひろがるち萓の芽だ
    ……水を汲んで砂へかけて……
つめたい風の海蛇が
もう幾脈も幾脈も
野ばらの藪をすり抜けて
川をななめに溯って行く
    ……水を汲んで砂へかけて……
向ふ岸には
蒼い衣のヨハネが下りて
すぎなの胞子たねをあつめてゐる
    ……水を汲んで砂へかけて……
岸までくれば またあたらしいサーペント
    ……水を汲んで水を汲んで……
遠くの雲が幾ローフかの
麺麭にかはって売られるころだ


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