「どろの木」と「銀どろ」(1)

 新聞でも報道されていたように、去る10月13日に、保阪嘉内の出身地である山梨県韮崎市で、「保阪嘉内・宮沢賢治花園農村の碑」の除幕式とともに、小岩井農場から提供された「銀どろ」の木の記念植樹が行われたそうです。

 新聞記事には、下のように説明が付けられています。

 賢治の詩集「春と修羅第二集」(注1)や嘉内あての手紙(注2)、また嘉内が詠んだ短歌(注3)にも「どろの木」として登場する樹木は、2人を結ぶキーワードだ。 (注は引用者)

 ここで、(注1)「どろの木」が賢治の「春と修羅 第二集」に登場するというのは、「〔どろの木の下から〕」「〔いま来た角に〕」という「外山詩群」(1924年4月)の二作品と、あとこれは先駆形においてだけですが、「〔うとうとするとひやりとくる〕」の「下書稿(三)」=「霜林幻想」に、「泉川どろの木の葉の落ちちりて…」と出てきます。

 さらに、(注2)「嘉内あての手紙」というのは、1925年6月25日付けの書簡[207]、すなわち賢治から嘉内あての、おそらく最後の手紙です。

お手紙ありがたうございました
来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働らきます いろいろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します わたくしも盛岡の頃とはずゐぶん変ってゐます あのころはすきとほる冷たい水精のやうな水の流ればかり考へてゐましたのにいまは苗代や草の生えた堰のうすら濁ったあたたかなたくさんの微生物のたのしく流れるそんな水に足をひたしたり腕をひたして水口を繕ったりすることをねがひます
お目にもかゝりたいのですがお互ひもう容易のことでなくなりました 童話の本さしあげましたでせうか

 賢治が嘉内のことをどんなに大事に思っていたか、そしてこの時点でも当然その気持ちに変わりはなかったであろうことを思うと、最後の方などちょっと胸が熱くなってくるような、一度読んだら忘れられない手紙です。

 そして最後に、(注3)「嘉内が詠んだ短歌にも登場する」というのは、嘉内が『アザリア』に発表した、次のような作品のことです。

『アザリア』第一号
  どろの木は三本立ちて鈍銀の空に向へり 女はたらき
  三本のどろの木に出て幹にいる鈍銀の空鈍銀の空。
『アザリア』第二輯
  どろの木のあんまり光る葉をよけんと引きしカーテンに青空が透く
  影ろふはこれはどろの木、その木の根、まったく青く草に埋もる、

 嘉内が『アザリア』に短歌を発表したのは1917年、賢治の作品や手紙に出てくるのは1924-1925年ですから、間にはかなりの歳月が流れています。
 それにもかかわらず、この「どろの木」が、「2人を結ぶキーワードだ」と新聞記事が書いている事情については、菅原千恵子著『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』に、次のように書かれています。

 『アザリア』のメンバーの中でもこのころ「どろの木」に注目していたのは嘉内だけであり『アザリア』の中でこれほどこだわったところをみると、合評会の席で、同人のメンバーや賢治に「どろの木」の葉ずれの美しさや、ひかれる理由を語っていたと思われるし、当然「どろの木」に対する嘉内のおもいいれというものがあったにちがいない。「どろの木」は、言わば嘉内の愛用語であり専売特許であった。肥沃な地に育ち「泥の木」とも書かれるこの木を、嘉内は大地に生きる農民や農業のシンボルネームと考えていたのではなかったか。

 著者による推測もまじえた論ではありますが、もしも「どろの木」がそのように「農民や農業のシンボルネーム」と考えられていたのなら、賢治が、「わたくし教師をやめて本統の百姓になって働らきます」ということを嘉内に伝える書簡において、「ドロの木の閃きや何かを予期します」と書いたことには、とても深い意味があったことと思えてきます。
 あの1921年7月の東京における悲しい訣別以来、いろいろまわり道はあったけれど、ついに賢治もまた、その昔に嘉内がおのれの理想として語っていたように、「どろの木」に象徴される「農」の世界に入っていくのです。賢治はそれを、かつての親友に、まさに万感の思いを込めて報告しようとしたのでしょう。

 そして今回、嘉内の故郷に「銀どろ」が植樹されるというのも、結局は農民のために尽くして生きた二人の思いを象徴する木として、うってつけの感があるというものです。


 などといろいろ考えていると、来月にその「銀どろ」の若木を拝見しに山梨に行くのが、いっそう楽しみになってくるのですが・・・、ここで一点だけちょっと気になることがありました。
 上述のように賢治の作品や嘉内の短歌に出てきて、「農民や農業のシンボル」と考えられたのは「どろの木」で、今回植樹されたのは「銀どろ」だったということですが、この2つの木は、よく似たものと考えていいのでしょうか。

 そこで2つの樹木について調べてみると、だいたい下の表のような感じです。

 
どろの木
銀どろ
他の和名 ドロヤナギ、ワタノキ、デロ
白楊
ウラジロハコヤナギ
銀白楊
学名 Populus maximowiczii
Populus suaveolens
Populus alba
日本における分布 本州の中部・北部、北海道に
自生
ヨーロッパ原産で、日本へは
明治中期以降に輸入
よく見られる場所 川辺や湖畔の肥沃な湿地 街路樹、公園樹
葉裏の様子 樹脂を分泌するため白っぽく
光沢がある
細かい綿毛が密生して真っ白で、「日の光を浴びるとまばゆいばかりの輝きを見せる」
参考ページ ドロノキ ギンドロ

 つまり、「どろの木」の方は日本の在来種、「銀どろ」の方は明治中期以降の外来種というところが、まずこの2種の大きな違いなのです。賢治は「銀どろ」も好み、自ら植えたり贈ったりしたことは有名で、『【新】宮澤賢治語彙辞典』には、「風に吹かれて緑と白の葉がいっせいにきらめく北欧風の雰囲気が、モダーンな賢治の好みに合ったものと思われる」とあります。
 しかし、もしも「農民や農業のシンボル」というような意味を込めるのならば、外国産でハイカラな街路樹・公園樹にされる「銀どろ」よりも、肥沃な大地に自生する日本古来の「どろの木」の方が、断然ふさわしいように思えてしまいます。
 保阪嘉内自身は、「銀どろ」という言葉は使っていないようで、上に引用した短歌において「どろの木」の方を何度か登場させただけですから、「2人を結ぶ」樹木として、「銀どろ」を植えるのが果たして適切なのか・・・、とちょっと考え込むところです。

 でも、この問題の解決策としては、「どろの木」という概念には狭義と広義の二種類があって、狭義では上の表のように日本の在来種のみを指すが、広義では、それに加えて外来種の「銀どろ」も含むのだと考えれば、何とか一件落着させることができます。このたび韮崎市に植樹された「銀どろ」の説明の標柱にも、「「ぎんどろ」の木」/「別名 どろの木」と書かれているようですから(「緑いろの通信10月19日」の写真参照)、ここで言う「どろの木」は、上の「広義」に該当するわけですね。

 そのように考えることにして、ひとまずこの問題は終了にしようと思ったのですが、賢治と嘉内をつなぐ「どろの木」について、調べているうちにあと少しだけ見ておきたいところが出てきました。

 ということで、残念ながらこの話はまだもう少し続くことになります。長くなってきましたので、残りは次回とさせていただきます。