「どろの木」と「銀どろ」(2)

 前回は、日本在来種の「どろの木」と、明治中期の外来種である「銀どろ」とは、ひとまず別の種であることを確認するとともに、このたび韮崎市に植樹された「銀どろ」の木の標柱には、「「ぎんどろ」の木/別名 どろの木」と記されていることから、「どろの木」という概念には、狭義と広義の2つの用法があるのだろうかと推測しました。この場合、狭義では日本古来の在来種の「どろの木」のみを指すのに対して、広義ではそれに加えて、「銀どろ」も含む呼称として用いられるのだと考えれば、いちおう辻褄が合います。

 ちなみに、保阪嘉内が『アザリア』掲載の短歌で用いた言葉は、「どろの木」の方だけでした。 他に、保阪庸夫・小澤俊郎著『宮澤賢治 友への手紙』に掲載されている資料を見るかぎりでも、嘉内が「銀どろ」という語を用いている例は、見つけられませんでした。


 で、今回は、嘉内の用例をもう少し詳しく見ておきます。まず、『アザリア』第二輯には、嘉内の次の短歌が掲載されています。

どろの木のあんまり光る葉をよけんと引きしカーテンに青空が透く

 これは、盛岡高等農林学校の、寮の窓辺での情景でしょうか。カーテンを引いて光をよけなければならないほど、どろの木の葉が「あんまり光る」というところが、何より印象的です。ここで推測されることとして、これほどまで葉が光っていたとすると、嘉内が見ていたのは在来種の(狭義の)「どろの木」ではなくて、外来種の「銀どろ」だったのではないでしょうか。
 前回の表にまとめてみたように、狭義の「どろの木」の葉の裏にも、「樹脂を分泌するため白っぽい光沢」はあるようで、たとえばこちらのページの一番下の写真のような感じです。しかしこれは、カーテンで遮光しなければならないほどまぶしく光るという様子ではありません。
 一方、「銀どろ」の方は、こちらのページにあるように、葉の裏には綿毛が密生していて、「日の光を浴びるとまばゆいばかりの輝きを見せる」というのです。
 すなわち、ここで嘉内が「銀どろ」のことを「どろの木」と表現したとすれば、前回の分類で言えば、嘉内は「どろの木」という言葉を「広義」で用いていた、ということになります。
 ですから、今回植樹された「銀どろ」の標柱に、「「ぎんどろ」の木/別名 どろの木」と記されたことは、「嘉内的」には妥当だったのかもしれません。

 次に、『アザリア』第一号に掲載された、やはり嘉内作の「六月草原篇」という連作短歌十首を見てみます。

   六月草原篇                 嘉内

六月のこの草原の艸々はギヤマン色す、笑ひたくなる
六月のこの草原に立ちたれば足の底よりかゆき心地す
どろの木は三本立ちて鈍銀(にぶぎん)の空に向へり 女はたらき
三本のどろの木に出て幹に入る鈍銀の空鈍銀の空
にぶぎんの空のまんなかに猫が居る、悲しき猫よ眼をつむりたる
Taraxacum Vulgare などといふ花のおほかた此の草のうちにあり
にりんさう、谷間をすべて埋めたり、まったく山を行く人もなし
広き野に羊を飼へる人を見る、細き羊の毛のとぶが見ゆ
農場の農夫はみんな昼深き睡に陥ちて湯ひとりたぎる
農場の農婦は草の上に寝る、毛虫一匹顔にかゝれど

 この連作の舞台がどこだったのかと考えてみると、「草原」があって、「羊を飼へる人」がいて、「農場の農夫」や「農場の農婦」がいる場所・・・となると、これは盛岡近郊では、「小岩井農場」をおいて他にはないでしょう。
 岡澤敏男著『賢治歩行詩考』によれば、小岩井農場に「育羊部」ができて羊の飼育が始まったのは、1903年(明治36年)頃のことで、その後1910年(明治43年)に育羊部は廃止され、羊の飼育管理は「耕耘部」に移管されたということです。嘉内が上の短歌を詠んだ1917年には、羊は耕耘部で飼われていたはずで、「どろの木」もその近くにあったのではないかと思われます。

 さて、今度は賢治の「春と修羅 第二集」の作品、「遠足統率」です。これは、1925年5月7日に、農学校教師の賢治が生徒たちの遠足を引率して小岩井農場を訪れた時のものですが、その最初の方には、次のような一節があります。

そこには四本巨きな白楊(ドロ)が
かがやかに日を分劃し
わづかに風にゆれながら
ぶつぶつ硫黄の粒を噴く

 そして最後の方には、

くらい羊舎のなかからは
顔ぢゅう針のささったやうな
巨きな犬がうなってくるし

という描写が出てきます。

 すなわちこの時、小岩井農場の「羊舎」からやはり遠くないところに、「四本の巨きな白楊(ドロ)」が立っていたというのです。
 嘉内が見た「三本のどろの木」と、数が一本違うのは気になるところですが、しかしどちらも羊の飼育場所の近くだったという共通点を考えると、これらは同じ木々のことだったのではないかと思えてきます。

 はたして賢治は、昔の嘉内の短歌のことを憶えていたのでしょうか。それはわかりませんが、いずれにしても8年もの歳月をへだてて、くしくも嘉内と賢治は、同じ「どろの木」を作品に描いたのではないでしょうか。
 そしてそのような経緯を思えば、今回韮崎市において「保阪嘉内・宮沢賢治花園農村の碑」の傍らに植樹された「銀どろ」の若木が、他ならぬ「小岩井農場」から寄贈されたたものであったことは、2人の不思議な縁を、まさに象徴するようです。
 これらの作品において嘉内が「どろの木」と呼び、賢治が「白楊(ドロ)」と記したのが、上に述べた「狭義のどろの木」なのか、広義のそれなのかはわかりませんが、もしも嘉内の『アザリア』第二輯の短歌のようにこれも「銀どろ」だったのならば、今回の記念行事に寄贈された木は、賢治と嘉内が小岩井農場で見た木の、はるかな子孫である可能性さえ、なきにしもあらずということになります。

 思えば今年は、嘉内が小岩井農場において「どろの木」の短歌を詠んでから、90周年にあたる年です。

黒沢尻南高校にあった賢治寄贈の「銀どろ」の木
黒沢尻南高校(当時)にあった賢治寄贈の「銀どろ」