苫小牧~小樽

 朝、伊丹8時35分発千歳空港行きの飛行機に乗り、下北半島の弁天島や噴火湾の上を飛んで、10時20分に北海道に着陸しました。天気はやや曇りがちなのですが、札幌市内は20度を越えて、今年いちばんの陽気だということでした。

 千歳空港からJRに乗り、南千歳で乗り換えて、まず苫小牧に向かいます。苫小牧には、去年の暮れに「賢治の詩を刻んだ歩道の敷石」が設置されたということで、今回はまずこれを見学するためにやってきました。
 「詩碑」と同じように、石の面に作品テキストを刻みながらも、「つねに人の足に踏まれる」場所にあえて敷設されるというのは、賢治詩碑フリークとしてはややと微妙な思いもあって、数年もたつうちにはどんどん擦り減ってテキストが読みづらくなってしまうのではないかとか、ちょっと心配です。
 しかしきっと苫小牧市としての趣旨は、ことさら賢治を祀り上げるというのでなく、「この街の文化を足下から支えてほしい」というような思いをこめているのでしょうか?

 さて、苫小牧駅を降りると、駅からは「駅前中央通り」と「駅前本通り」が平行して南へ伸びているので、最初はどちらに「詩の敷石」があるのだろうかと迷いましたが、西にある細い方の、「駅前本通り」がそれでした。苫小牧市はこの道を、街の「シンボルストリート」として整備しているようで、他にもいろいろ真新しい標識が立っています。
「牛」歩道敷石 それで、歩道のあちこちに埋め込まれている賢治の詩を刻んだ敷石は、たとえば右のようなものです。これは、「春と修羅 第二集」の「」で、例の「一ぴきのエーシャ牛が・・・」という一節で始まっています。

 実は、そもそもこの「駅前本通り」に昨年末に設置された敷石群は、その大半は市内の子どもたちの名前と生年月日と「足形」を刻んだものなのです。ただ、その中に10枚だけ、賢治の詩を刻んだものがまぎれこむように敷設されているというのが実情で、この10枚を探して歩くだけでも、「宝探し」のような趣向を味わうこともできます。
 今回私はどうにか、10枚全部を見つけることができましたので、またそのうちに全てを「石碑の部屋」でご紹介したいと思います。
 ちなみにその10枚のうちで下の一つは、賢治がこの1924年5月、修学旅行の引率時に宿泊した「富士館旅館」のあった場所を示す敷石です。現在その跡地は、あまり風情のない駐車場になってしまっているようですが。

「富士館旅館跡」歩道敷石

 しばらく下ばかり見て歩いて歩道敷石を確認し終えると、この夜の賢治の足跡にも沿って、さらに南へ、海岸の方へと向かいました。

 駅から海までは1.5kmほどです。そしてこの海岸こそ、賢治が「」や、その先駆形である「海鳴り」をスケッチした場所なのですが、この時に賢治が偶然目撃した「エーシャ牛」について、2004年4月13日付け「苫小牧民報」には、興味深い記事が載っていました。この頃、海岸近くで実際にエーシャ種の牛を飼っていた「中村牧場」およびその牛乳店が実在していて、その牧場跡を記念するかのように、当時のサイロが現在も残されているというのです。

「中村牧場」サイロ跡 「苫小牧民報」の記事を頼りに、海岸近くの住宅地をしばらく歩いてみると、右写真のような「サイロ」が見つかりました。これは、その頃の実物のサイロのままでは倒れる危険があるので、高さは短く切って、とんがり屋根を載せた、「ミニサイロ」になっているということです。
 しかし、わざわざ後継者の方がこのようにして保存しておいてくれたおかげで、80年以上前に賢治が「牛」を目撃したおおよその場所が、現在も確認できるわけです。詩を読むと、当時はほとんど海辺だったようですが、現在は海岸から数十メートルほど内陸になっています。

 サイロを見届けると、この後は海岸に出て、地響きのような「海鳴り」を体験しました。連休らしく、浜辺でバーベキューをやっている人たちもいましたが、強風の中で大変そうです。

苫小牧の海鳴り

 それからまた街へ戻って、苫小牧市立中央図書館に行き、大正時代の旅館「富士館」の写真や、昔の「中村牧場」の写真をコピーしてきました。これらは、また近いうちにここでご紹介させていただきます。

 午後3時前に苫小牧を後にすると、賢治の修学旅行とは逆のコースをたどって、JRで小樽へ向かいました。
 小樽というと、最近は寿司が名物のようです。街には、「寿司屋通り」という通りまであります。
 お店では、月並みですが「うに」や「いくら」が、何と言っても私などがふだん口にするようなものとは代物が違い、春のシャコや、珍しい「金目鯛のヅケ」などのネタも美味しかったです。

小樽「伊勢鮨」