「地人協会」から「肥料相談」へ

 詩「三月」(「口語詩稿」)において描かれた石鳥谷における肥料相談のフォロー・アップとして、賢治はその年の夏に石鳥谷方面の農家をまわって、さらに稲作の指導をしたようです。
 肥料相談の企画をした菊池信一あての、1928年7月3日付けの手紙(書簡[239])では、「それで約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして来年の見当をつけるだけのことにしやうと思ひます」とその予告をしていますし、菊池の「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」には、「暑い日盛りを幾度となくそれらの稲田を見廻られた」と記録されています。

 そしてこの時の、石鳥谷地区の稲田の見廻りにおける一コマを描いた作品が、「」(「口語詩稿」)であるようです。田んぼを見た後で、農家の縁側に腰をおろして、お茶を出されて一休み、という情景です。この作品の舞台が石鳥谷のあたりとわかるのは、後半の方に「松林寺の地蔵堂も/こゝから遠くないものだから」とあるからで、「松林寺の地蔵堂」というのは下の地図のように石鳥谷の西の方にあるのです。

 上図で、「A」は「肥料相談所跡」、「B」は昨年にできた「三月」詩碑、そして「C」が松林寺の地蔵堂です。
 この「夏」という作品でもそうですが、賢治はかわいい童子の姿から地蔵菩薩を連想することがしばしばあったようで、「市日」(『文語詩稿一百篇』)でも「地蔵菩薩のすがたして、/栗を食(た)うぶる童(わらはべ)と、…」と書いたり、「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」(「春と修羅 第二集」)では、妹(シゲ)の幼な子を創作劇に登場させて、地蔵菩薩の発心の物語を上演することまで空想しています。
 作品「夏」の冒頭には、「もうどの稲も、分蘖もすみ」と書かれていますが、「分蘖」というのは稲が成長とともに株分かれしていくことで、たまたま Web 上で見つけた「水稲分蘖の発生機構に関する一知見」という論文を参照すると、東北地方で稲の分蘖は7月下旬までに終わり、8月には株数はむしろ減少傾向となるようです。すなわち、この作品が書かれたのは、1928年7月下旬から8月初めあたりであることが推測されます。

 ちなみに、この年の8月10日頃に、賢治は結核に倒れて長い病床に就いてしまいます。その直前のエピソードだったわけですね。


 ところで、全集においてこの「三月」や「」が分類されている「口語詩稿」というカテゴリーは、「詩稿用紙に書かれているが、作品番号もスケッチ日付も伴っていない口語詩」のグループで、その意味では雑多な作品の集合なのですが、この「三月」や「夏」がそうであるように、1927年の後半から1928年の夏頃までの間に書かれたと思われる口語詩が、中にはかなり含まれているようです。

 「春と修羅 第三集」は、1927年8月20日の日付を持つ「〔何をやっても間に合はない〕」(作品番号一〇九〇)から、作品番号を失った「台地」(1928.4.12)、「停留所にてスヰトンを喫す」(1928.7.20)、「穂孕期」(1928.7.24)という最後の三作まで大きく日が飛んでいます。また「詩ノート」も、1927年9月16日の「藤根禁酒会へ贈る」をもって最後になってしまいます。
 しかし、この間の空白に見える1927年後半から1928年夏まで、賢治の詩作エネルギーが衰えていたわけではないことは、「三原三部」や「東京」詩群とともに、この「口語詩稿」の諸作品が示してくれていると思います。ちなみに「口語詩稿」には、「肥料相談」をテーマとした作品だけを見ても、「三月」に加えて「火祭」や「〔湯本の方の人たちも〕」などがあります。

 思えば、1927年の秋以降は、羅須地人協会としての目立った活動は何も行われなくなり、協会活動には必須の備品であったはずの謄写版印刷器も、1928年2月の普通選挙を前に、賢治は労農党支部に寄付してしまいました。
 青年を対象とした「私塾」的「組合」の創設という当初の目標には行き詰まりを感じた賢治は、1928年以降は、広く一般の農民を対象とした「肥料設計相談」という活動によって、農業の進歩に貢献しようという方向へと、自らの活動の舵を切っていったような感があります。

 そして偶然のことですが、その時期は、個々の作品が「日付」や「作品番号」を失っていった頃に相当します。