ウィリアム・ジェイムズと「宗教のふるい分け」

William James (1842-1910) ウィリアム・ジェイムズ(William James, 1842-1910)は、アメリカの心理学者・哲学者です。心理学の分野では、「意識の流れ」という概念の提唱や、「情動に関するジェームズ=ランゲ説」に現在も名を残し、哲学においては「プラグマティズム」の代表的論客の一人でした。

 20世紀初頭には名声の高かったジェイムズの著書を宮澤賢治も読んでいて、かなりの影響を受けていたことが知られています。
 賢治の作品そのものの中にも「ジェームス」の名前が出てきたり、このブログにおいても「William James の名前いろいろ」や「井戸に落ちる話」の中で両者の関連に触れたり、「〔黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり〕」という作品への影響については昨年に発表してみたりして、いろいろと賢治とのつながりは感じているところなのですが、先日、ジェイムズの「多元的宇宙(A Pluralistic Universe,1909)」という最晩年の講演録を読んでいると、次のような一節がありました。

 ・・・たしかに、われわれを包むもっと高位の意識、つまりフェヒナーのいう地球の魂などの概念が、オーソドックスなものとなり流行するようになれば、ありとあらゆる迷信や狂信がはびこり出すに違いありません。フレデリック・マイヤーズは、いわゆる心霊現象を科学的に承認すべきだと熱心に主張しており、私自身もこういう現象のほとんどが実在に根づいていると確信していますが、科学がそれらを認めようものなら、迷信や狂信はさらにあふれかえることでしょう。
 けれども、そんな臆病な考えから、最大の宗教的な可能性を明らかにもたらしてくれる道をたどることを、本気で思いとどまるべきでしょうか? この複雑な世界において、何かよいものが、独立した純粋な形で与えられたことが今までにあったでしょうか?(中略)砂金は、石英の砂からふるい出されます。この条件は、他のすばらしいものを手に入れる場合と同様、宗教にもあてはまります。
 ふるいにかけること、つまり生存競争が必要なのです。しかし、最初は土も宝石も混ざり合っているはずです。それをいったんふるいにかけると、宝石だけを取り出して、検査し、概念化し、定義し、分離することができます。けれども、このふるいの過程を避けるわけにはいきません。そんなことをすれば、すでに述べたように、薄っぺらで劣った抽象物、つまり、スコラ神学の、中身のない非実在的な神か、理解できない汎神論的な怪物を得るはめになります。一方、経験的な方法を用いれば、人は想像のなかで、もっと生き生きとした神的な実在と結びつくようになるはずです。
        (日本教文社『ウィリアム・ジェイムズ入門』,本田理恵訳より)

 前半の部分からは、ジェイムズが、当時の「心霊現象」というものについてどのように考えていたかがわかります。「心霊現象のほとんどが実在に根づいている」という考えは、様々な超自然的体験をしたり、「異空間の実在」を信じていた賢治にも、共通するところがあります。
 後半では、宗教というものについて、「石英の砂から砂金をふるい出すように」、価値のあるものとないものを「分ける」ことが重要であると説いています。
 これを読んでいると、『銀河鉄道の夜(初期形 三)』において、ブルカニロ博士がジョバンニに語ってきかせたことを、連想してしまいました。

 ブルカニロ博士がジョバンニに対して、「しづかな場所で遠くから私の考を人に伝へる実験」を行ったという設定も、一種の心霊現象の科学的実験だったわけですが、この時に博士はジョバンニに、宗教に関して次のように言ったのです。

 みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。

 賢治がジェイムズの「多元的宇宙」を読んでいたかどうかはわかりませんが、多種多様な宗教的思想を、「検査し、分離する」などと考えるところは、よく似た発想をするなあと思いました。
 ちなみに夏目漱石も、ウィリアム・ジェイムズの影響を受けた人として知られていますが、生前の漱石の蔵書の中には、‘A Pluralistic Universe’もあったそうです。