William James の名前いろいろ

 「春と修羅 第二集」所収の「林学生」という作品に、‘ジェームス’ という人名が出てきます。「赤い歪形」 と題されたその下書稿(一)の方がわかりやすいので、そこから引用すると、

  (先生 先生 山の上から あれ)
  (お月さんだ まるっきり潰れて変たに赤くて)
(それはひとつの信仰だとさジェームスによれば)

という箇所です。
 これは賢治が、岩手山かどこかへ農学校の生徒を引率してやってきて、赤く変形した月が昇るのを生徒と一緒に見ているところと思われます。

 この‘ジェームス’とは、アメリカの哲学者・心理学者であるウィリアム・ジェイムズ(William James, 1842-1910) のことですが、赤い月が「ひとつの信仰だ」とは、いったい James のどのような学説と関係があるのか、 よくわかりません。あるいは、「それはひとつの信仰」の「それ」とは、月のことではなくて、何か別の事柄を指しているのでしょうか。

 ここでちょっと、賢治による James の名前表記に注目してみます。正しくは‘ジェイム’ と濁音(有声音)で発音される所を、賢治は ‘ジェーム’と清音で記しているのが、 ちょっと特徴的です。そしてこの表記は、下書稿(二)や(三)になっても、同じままです。
 そこで、彼の名前は当時の日本でどう呼ばれるのが一般的だったのか、調べてみました。下書稿(一)が書かれた1924年までに、 日本で刊行された William James の翻訳書を、国会図書館の蔵書目録から検索して表にすると、以下のようになります。これは、 賢治の頃には、彼が何度も通った上野の帝国図書館に所蔵されていたと思われる書籍でもあります。

訳書名
訳書出版年
著者名表記

 教授的心理学

1901

 ウィリヤム・ゼームス

 心理学精義

1906  

 ウィリアム・ゼームス

 教育心理学講義

1908  

 ウィリアム・ゼームス

 実際主義

1910  

 ウヰリアム・ゼームス

 宗教的経験の種々

1914  

 ジエームス

 自我と意識

1917  

 ヰリアム・ヂエイムス

 最新心理学概論

1918  

 ウイリアム・ゼイムス

 信仰の哲学

1919  

 ゼームス

 人生の哲学

1921  

 ヰリアム・ジエームズ

 宗教経験の諸相

1922  

 ジエームズ

 根本経験論

1924  

 ウイリアム・ヂエイムズ

 心理学

1927  

 ヰリアム・ジエームス

 実用主義の哲学

1930  

 ジェームズ

 

 これを見ると、当時は現在よりもはるかに、外国人の名前表記はバラバラだったという感じがします。そして、 この作品が書かれた1924年までに出版された訳書の中で、賢治の‘ジェームス’という表記とほぼ同じなのは、1914年刊行の 「宗教的経験の種々」(ジエームス)だけです。これ以外にもたくさん訳書は出ていますが、ご覧いただければわかるように、他は‘ゼームス’ ‘ヂエイムス’ ‘ゼイムス’‘ジエームズ’など、どれも何かしら異なっています。
 つまり、「赤い歪形」~「林学生」という作品を書くにあたって、賢治が下敷きにした William James の翻訳書は、この 「宗教的経験の種々」である可能性が高いのではないかと私は思うのです。

 この翻訳書を開いてみると、その第三講「見えざる實在」という章の冒頭には、次のように書かれています。

 宗教生活を出來るだけ最も廣い最も一般的な言葉で特示するやう請はれると、 宗教生活は見えざる秩序がありその見えざる秩序に我等自身を調和する様整へる所に我等の此上もない善があるといふ信仰から成立するものであると人は答へるだらう。 此見えざる世界ありといふ信仰とそれに適合させる事とが心の中の宗教的態度である。

 James の考えでは、宗教の本質は、宗W.James: Varieties of Religious Experience.教的「経験」よりも、「信仰」の方にあるとされています。 「観念」よりも「行動」を重視する、 プラグマティストとしての立場です。

 この作品の書かれた晩、赤く変形した月の出現を見た賢治は、 何か宗教的な感覚にとらわれたのではないでしょうか。これを「赤く歪んだ月」と書かずに、あえて「赤い歪形」と表現したのは、James のいう「純粋経験」として、すなわち「それは月である」という認識以前の、心象の段階のものを書きとめようとしたのではないかと思います。
 賢治は不思議な体験をよくする方で、「見えざる實在」としばしば遭遇し、それをたいてい直観的に宗教的な性質のものとしてとらえています。 しかし James によれば、宗教的な経験を宗教的たらしめているのは、「信仰」という精神活動なのだというのです。

 「それはひとつの信仰だとさジェームスによれば」という作品中の言葉は、 このような文脈におけるものなのではないでしょうか。
 賢治は、赤く歪んだ不思議な物体を見て、それを生徒たちのようにたんに「変」とか「おかしな」と感じるにとどまらず、 宗教的な色彩を帯びて体験します。ここで彼は、その宗教感覚の背後にあるものに考えをめぐらし、「それ (=感覚に宗教的色彩を与えているもの)」は、James の説によれば「信仰」だったよな、と思い出しているのではないでしょうか。

 右上に掲げた扉写真は、 先日国会図書館に行った時にマイクロフィッシュからコピーしてもらったものです。賢治の蔵書の中にこの本は見つかっていませんから、 彼はその昔に、帝国図書館に置かれていたこの本そのものを、手に取っていたのかもしれません。
 そう考えると、ちょっとうれしくなります。