井戸に落ちる話

 ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』(先頃触れた 『宗教的経験の種々』の岩波文庫版)を読んでいると、トルストイの『わが懺悔』の一節として、次のような文章が引用されていました。

 東洋には、旅人が荒野で猛獣におびやかされる、という大へん古い寓話がある。
 旅人は、猛獣から逃れようとあせって、水のない井戸に飛びこんでしまう。しかし、彼は、その井戸の底に、一匹の竜が口を開いて自分をむさぼり食おうと待ちかまえているのを見る。
 そこで、その不幸な男は、猛獣の餌食にならないようにあえて井戸から出ることもならず、 竜に食べられないようにあえて底へ飛び降りることもならず、井戸の割れ目の一つから生えている野生の灌木の枝にすがりついた。手が疲れてきた、彼はやがてある運命に屈しなければならぬことを感じた。しかし、それでもなお彼はすがりついていた、すると、白い鼠と黒い鼠との二匹の鼠が、彼のぶら下がっている灌木のまわりをむらなくまわりながら、その根を噛み切っているのを見た。
 旅人はそれを見て、自分がどうしても死なねばならぬことを知った。しかし、そうやってぶら下がっているいる間に、彼は自分のまわりを見まわして、灌木の葉の上に、数滴の蜜のあるのを発見する。彼は舌を伸ばして、それをなめてうっとりするのである。

 この「東洋の古い寓話」とは、ネットで調べてみると、『法句譬喩経』の中の「黒白二鼠」 という喩え話だったのですね。

 そしてこの話は言うまでもなく、「銀河鉄道の夜」において女の子が語る、「蠍の火」の逸話に関連しています。途中からの展開とその寓意はまったく異なってきますが、「荒野(バルドラの野原)で猛獣(いたち)に追われて井戸に落ち、そこで自らの死を悟る」という導入は、同型です。
 もちろんすでに誰かが指摘していることとは思いますが、この印象的な蠍のエピソードは、賢治が上記の寓話を下敷きにして、食物連鎖・自己犠牲という得意のテーマを結晶化したものなのでしょう。
 一瞬、賢治はジェイムズあるいはトルストイの本から着想を得たのだろうかとか思いましたが、仏教に博識な彼のことですから、もちろん直接『法句譬喩経』からでしょうね。