新美南吉・青春日記(2)

 先日「新美南吉・青春日記(1)」に書いたように、19歳で東京外語学校2年の新美南吉は、すでに宮澤賢治の何らかの童話を読んでいたようです。

四月十七日 月曜日
宮島けん治(ママ)の童話にしげきされて昨夜、一ぺんを軽い気持ちで書きあげた。“蛾とアーク燈” (『新美南吉・青春日記』より)

 「蛾とアーク燈」は、映画館における一コマの情景を描いた作品でしたが、日記によると、4月16日に新美南吉は、友人と一緒に「本郷座」という映画館で、「暴君ネロ」という映画を見たようです。この時の体験も何らかの形で関与して、その晩に童話の一篇が生まれたのでしょうね。
 で、私としては、この時に南吉が読んで「しげきされた」というのが、賢治のどの童話だったのだろうかということに、興味を引かれます。

 ちなみに、賢治が生前に発表した童話は、次の19篇です。

  • 「雪渡り」(『愛国夫人』,1921-1922)
  • 「やまなし」(岩手毎日新聞,1923)
  • 「氷河鼠の毛皮」(岩手毎日新聞,1923)
  • 「シグナルとシグナレス」(岩手毎日新聞,1923)
  • 『注文の多い料理店』(単行本,1924)
      ・「どんぐりと山猫」
      ・「狼森と笊森、盗森」
      ・「注文の多い料理店」
      ・「烏の北斗七星」
      ・「水仙月の四日」
      ・「山男の四月」
      ・「かしはばやしの夜」
      ・「月夜のでんしんばしら」
      ・「鹿踊りのはじまり」
  • 「オツベルと象」(『月曜』,1926)
  • 「ざしき童子のはなし」(『月曜』,1926)
  • 「寓話 猫の事務所」(『月曜』,1926)
  • 「北守将軍と三人兄弟の医者」(『児童文学』,1931)
  • 「グスコーブドリの伝記」(『児童文学』,1932)
  • 「朝に就ての童話的構図」(『天才人』,1933)

 一方、新美南吉の童話「蛾とアーク燈」とは、先日もご紹介したように、映画館の中に迷い込んだ一匹の蛾が、銀幕の上に映し出された大きな花にとまってみるが失望し、次に映写機の眩しい光に向かって飛んでいって、映写技師に叩き落とされて死んでしまう、という哀しいお話でした。
 とても美しい作品なのですが、あまりにあっけなくその世界が壊れてしまう(壊してしまう?)様子は、いかにも少年の夢のようです。上記の賢治の作品が、たとえ短くても周到に構築されているのと比べると、かなり違った印象を与えます。また、設定や内容の点でも、賢治の19篇に直接的に「似ている」と言えるものは見あたりません。

 すなわち、「「蛾とアーク燈」に影響を与えた賢治の作品はどれか」という問題は、さほどすんなり答えが出るものではありませんが、私としてはこれは、同年に出された「朝に就ての童話的構図」ではないかと思うのです。
 先日も引用したように、『新美南吉・青春日記』の11月29日の項には、「“朝の童話的構図”、あれはすばらしい感覚的な童話だつた」との記述があり、南吉がこれを読んでいたことは確かなので、まあ仮説としては無難なものです。賢治のこの童話が発表されたのは1933年3月25日号の『天才人』で、南吉が「蛾とアーク燈」を書いた4月16日の直前でした。
 作品の中身において、この二つに最も共通していると思われるのは、双方を一貫する「虫瞰的視点」です。賢治の方は「蟻」の眼から、南吉の方は「蛾」の眼から見た世界が描かれます。
 また、南吉が「朝に就ての童話的構図」を「すばらしい感覚的な童話」と讃えていることと対応するように、「蛾とアーク燈」にも、きわめて感覚的に繊細な表現が目立ちます。蛾から見ると映画館の観客の「目」が、「月夜に海の庭に光つてゐる澤山の貝殻の様に見えました」という描写や、スクリーンにとまっていた蛾が、「ぷいとそこからとび立つと、蛾の羽から、こまかい粉が、きらきらと光りながら、落ちて行きました」というところなどがそれです。若い南吉が、賢治独特の感覚的描写をとり入れようとしていたようにも思えます。
 ところで、『天才人』というのは盛岡市で発行された地方同人誌ですから、それを刊行後まもなく東京の新美南吉が読んでいたとすれば、その「橋渡し」をした人物がいたことが推測されます。それはやはり、岩手県日詰町出身で、当時南吉の兄貴分的存在だった巽聖歌なのではないでしょうか。


 まあはっきりと答えが出ることではありませんが、それにしてもここまで賢治に心酔していた新美南吉でありながら、その賢治の氏名をちゃんと書けていないのは、どうしたことでしょう。4月16日・17日には「宮島けん治」、11月29日には「宮沢顕治」・・・。
 後の方は、今から20年ほど前に国会の質問でも間違えた自民党の議員がいましたが、宮本顕治氏が「「敗北」の文学」によって『改造』懸賞論文の一席を取ったのは1929年のことで、ひょっとしてこの名前が、南吉の頭の片隅にもあったのでしょうか。