ホテルで朝食を済ませると、国会図書館に向かいました。これで今年は3回目となります。
今日調べたかったのは、「オホーツク挽歌」行の帰路における1923年8月7日の大泊→稚内の連絡船が欠航した可能性を指摘する説に関する最終確認、それから1926年以前に賢治が帝国図書館で閲覧できたはずの、生理学関係の専門書に関することです。
8月7日の稚泊連絡船に関しては、やはり萩原昌好さんの著書における指摘のとおり、この日の船に確かに貴族院議員の視察団が乗船して大泊から稚内に渡ったことが、8月9日~10日の「樺太日日新聞」の複数の記事から確認できました。したがってこの便が「欠航していた」ということはありえません。
そうすると、「一九二三、八、七、」の日付を持つ「鈴谷平原」に、「こんやはもう標本をいつぱいもつて/わたくしは宗谷海峡をわたる」との記述があることから、賢治がこの船に乗船していた可能性はかなり高いことになります。この船上の出来事と推測される「宗谷〔二〕」に登場する立派な「紳士」が、貴族院議員だったのではないかという思いつきを含め、この辺のことについてはしばらく前にも書きました。
また、8月8日に賢治が稚内に着いていたとなれば、9日と10日に札幌ですごす時間を持つことも可能になり、「札幌市」に記された思い出の有力候補として、あらためて浮上します。
一方、「1926年以前の生理学書」という件に関しては、実はそもそも私はこれが調べたくて、今年の春から国会図書館に足を運びつづけていたのでした。このたび「三度目の正直」で、やっと目的としていた成果を上げることができました。すなわち、1923年に刊行された加藤元一著『生理学』上巻(右写真)p.384に、「正常なる神経繊維は悉無律に従ふ」との記載を確認できたのです。
と言っても、これだけではどういう意味があるのか不明でしょうが、私としては賢治がこのような知識を持っていたことが、「詩ノート」の「〔黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり〕」という作品の土台にあったのではないかと、かねてから思っていたのでした。
このことについては、いずれきちんとまとめてみたいと思います。
『生理学』のマイクロフィッシュのコピーを受けとると、午後3時に予定より早く国会図書館を後にしました。
表に出ると、しばしの間その住人を失っている国会議事堂が、陽射しに照らされてそびえていました。私はこの5~6月頃には、当時上程されていたある法案に関して、柄にもなく議員会館に日参するようなことをしていたのですが(おかげでついでに図書館ものぞけたのですが)、解散で廃案になってしまうと、あっけないものでした。
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