国柱会・妙宗大霊廟

 午後から新幹線に乗って、東京に向かいました。たまたま、高校野球の「桐光学園」の選手たちと同じ車両に乗り合わせましたが、みんな車中ではおとなしくマンガを読んだり眠ったりしていて、新横浜駅で静かに降りていきました。あとで調べてみると、昨日の試合で「京都外大西」に敗れたのですね。「疲労」と「充実感」が混ざったような雰囲気でした。

 東京に着くともう日は傾きかけていましたが、賢治の歌碑の写真を撮りなおしたかったので、江戸川区一之江というところにある国柱会本部を目ざしました。ここは東京都の東南の端っこの方で、少し南に行くともう千葉県浦安のディズニーランドがあるような場所です。
妙宗大霊廟 いくつか電車を乗り換えて一之江にたどり着くと、現在は国柱会の中心施設となっている「妙宗大霊廟」を拝観させていただきました(右写真)。
 「【新】校本全集」の年譜にも記されていますが、賢治の妹トシの遺骨の一部は、ここに「合同安置」されています。しかしいかなる運命のいたずらか、賢治の遺骨は、ここには入っていません。

 賢治が熱烈に身を投じた国柱会は、田中智学が「純正日蓮主義」を掲げて創始した在家仏教集団で、田中のカリスマ性のもとには高山樗牛や石原完爾など多くの人々が集まり、一時は日本の国粋主義の思想的支柱となっていた観もありました。

 現在も、国柱会の目的は、「日蓮聖人の立正安国の精神を体して、この地上に絶対平和世界・仏国土真世界を実現」することとされています。もちろん理念としてはそうなのでしょうが、近年、実質的に行っている活動の中心は、この「妙宗大霊廟」という一種の共同墓申孝園入口地の管理供養と、横にある「申孝園ロータスヴィラ」という有料老人ホーム(左写真の赤レンガのビル)の運営という二本柱になっているようです。
 国柱会のホームページ自体のタイトルも、「一之江・妙宗大霊廟」となっていますし、今ではここに納骨してもらえる条件は、国柱会会員でなくてもよいどころか、「宗旨・宗派は問わない」ことになっています。「老人ホーム+お墓」というカップリングが「ビミョー」ですが、今ではここは、「誰でも入れるお墓」なんですね。
 その昔の国柱会が、ラディカルな思想性によって当時の若者を惹きつけたことを思えば、時代の流れを感じます。

 さて、この「妙宗大霊廟」のユニークさは、いったん納骨され「合同安置」されてしまうと、霊廟には生きた人間は立ち入れないことになっているので、遺族は個々に自分の身内の墓参をするのではなくて、すべての人々を合わせて祀る上写真の「塔」を拝むだけになるということです。田中智学が考え出したこの「一塔合安」という方法は、もちろん宗教的な意味づけもなされていますが、狭い日本における「墓地問題の完全な解決」ということを、その謳い文句にしていました。

 しかし私としては、「そこに祀られているすべての死者の魂が融け合う」というような場だからこそ、この霊廟に宮澤家の中ではトシの遺骨だけが寂しく納められているという現実が、よけいに痛切に感じられてしまいます。賢治の生前に、納骨に関する遺言は何もなかったとされているため、死後彼の遺骨は、まず宮澤家の菩提寺である安浄寺の墓に納められ、1951年父政次郎氏の日蓮宗改宗に伴って現在の身照寺に改葬されましたが、国柱会の方に祀られることはありませんでした。
 思えば1922年11月、浄土真宗の安浄寺で行われたトシの葬儀の日、ひとり賢治は分骨を強硬に主張し、自ら持参した小さな鑵に彼女の遺骨の一部を分け入れ、それを当時はまだ静岡県三保にあった国柱会妙宗大霊廟に安置する手筈をとったのでした。オホーツクの旅でも彼女にあれほど呼びかけていたのに、暗い廟でずっと彼を待ち続けているトシのところへなぜ行ってやろうとしなかったのか、これは私が以前から不思議に思っていた点です。

 その理由として一応考えられることは、(1)賢治は死期を前に国柱会から心が離れていたか何かの理由で、意図的に妙宗大霊廟への納骨を遺言しなかった、(2)遺言するつもりだったが、その時間がないうちに亡くなってしまった、(3)遺言したが、遺族がそれを望まずその事実も公にしなかった、というようなことです。
 (1)は、彼は死ぬまで国柱会の会員でしたし、たとえ一時の信仰が冷めていたとしても、先に納骨したトシのことを思えば、意図的に避けたということはないでしょう。(3)に関しては、「年譜」を参照すると、トシの遺骨を静岡三保の妙宗大霊廟に実際に届けたのは、父政次郎と妹シゲだったという説も有力で、伝えられる父の姿勢からしても考えにくいことです。
 そうすると、(2)が真相ということになるのでしょうか。

 「年譜」で賢治の臨終の1933年9月21日の項を見ると、もはや死期の近いことを悟った父に「なにか言っておくことはないか」と聞かれ、賢治は次のように答えています。「国訳の妙法蓮華経を1000部つくってください」、そして「『私の一生の仕事は、このお経をあなたのお手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れて無上道にはいられることをお願いするほか、何もありません』と書いておいてください」。
 そして父が、「たしかに承知した。おまえもなかなかえらい」と応じ、「そのほかにないか」と尋ねると、「いずれあとで起きて書きます」と言っています。
 しかし、このあと母を残して家族が階下に降りると、賢治はオキシフルの消毒綿で身体を拭き、眠りに入るように息絶えてしまいました。

 この時、もし賢治が起きて文字を書くことができておれば、遺言によって東京一之江の妙宗大霊廟にも、賢治の遺骨が納められることになったのではないか、そう私は思ったりします。
 そうなっておれば、オホーツクでも交信のかなわなかった兄妹は、ここで11年ぶりにめぐり逢えたわけですね。

品川のホテルから望むレインボーブリッジ