「隅田川」:滝廉太郎の曲にのせて

 1ヵ月ぶりの歌曲の新規アップロードですが、ただしこれは賢治オリジナルの歌ではありません。
 彼の文語詩「隅田川」 というのが、私の頭のなかではどうしてもあの滝廉太郎による名曲「花」のメロディーで流れてしょうがないので、思い切って 「歌曲の部屋 ~別室~」に、 この替え歌の一種を「滝廉太郎「隅田川」 」として載せてみました。

関豊太郎博士 しかし、舞台設定の共通性といい、旋律と詩の適合性といい、 一方でまたその情景の極端な対照に漂うアイロニーといい、これはこれで面白いと思いませんか?

 この妙なお花見が、1921年4月の出来事であり、そこに登場する「踊る酔っ払い」が、盛岡高等農林学校元教授の関豊太郎博士 (右写真)だというのは、ほぼ定説と言ってもよいようですが、その具体的な場所と参加者に関しては、異説もあるようです。

 宮沢俊司氏は、『宮沢賢治 文語詩の森 第二集』(柏書房,2000)所収の「隅田川」の評釈において、(1)作品の舞台は、 江北村から西新井村にかけての荒川堤である、(2)花見には、関豊太郎博士、賢治のほかに保阪嘉内も参加していた、と推定しておられます。

 宮沢俊司氏の挙げる(1)の根拠は、「歌稿〔B〕」において805~811の八首が赤インク枠で括られていることから、 この八首は同じ一つの場面を詠んだと考えたことに由来します。文語詩「隅田川」は、このうち810・811を題材としており、 一方806には「千住」の地名が出てくるので、「千住を望める花見のできるところ」を探した結果、江北村・ 西新井村の荒川堤が浮かび上がったというのです。
 しかし、荒川の堤で花見をしたのなら、作品に「隅田川」と題を付けるのは、おかしなことです。
 ただこれには事情があって、荒川と隅田川は実は一本の川で、場所によって呼び名が変わっているだけなのです。そこで宮沢俊司氏は、 「荒川堤をずっと下って行けば、向島堤の隅田川河畔へ出るので、造成中の放水路を隅田川と見立てたのだろう」と解釈しておられます。
 しかしたとえそのような事情があるとしても、そこが荒川と呼ばれている場所だったのなら、作品にわざわざ別の地名を付けるというのは、 やはり不自然です。

 これについてもう少し考えるために「歌稿〔B〕」を見ると、この歌稿で赤インク枠が付けられた歌群は他にもあります。例えば、 273~275も同じように枠で括られた上で、さらに同じ赤インクで「東京中別掲」と記されています。つまり、この赤インク枠は、「東京」 ノートに転写したこと(あるいはする予定)を示すための賢治の書き込みであって、「一つに括られているから同一の場面を詠んだ」 という意味とは限らないのではないでしょうか。
 これを、そう決めつけたことから無理が生じたような気がします。

 この作品の舞台は、荒川堤だったと考えるよりは、関豊太郎博士の自宅および勤務先が隅田川から約1kmのところにあり (地図参照)、 賢治がそのどちらも訪ねたことを関博士自らが書き残しているのですから(奥田弘『宮沢賢治 研究資料探索』参照)、賢治の訪問の折に、 一緒に歩いて出かけたと考える方が、自然な気がします。

 さて次に、(2)の保阪嘉内が同席していたかどうかということですが、宮沢俊司氏がその根拠としておられるのは、「下書稿(二)」 の第一形態では一行目が、「甲斐より来たる なが弟子は」となっていたということです。「甲斐」と来れば、 山梨県北巨摩郡駒井村出身の嘉内を連想するのは無理もありません。
 しかし、この「下書稿(二)」の上では、「甲斐より来たる」だけではなくて、「奥に生れし」→「越より来ける」 など様々な推敲が行われており、「甲斐」だけに特別な意味があるわけではないようなのです。「奥に生れし」なら賢治自身かもしれませんし、 「越より来ける」なら・・・、ちょっと賢治の同級生名簿を調べると、新潟県出身の中川留吉・ 山田沢治という人が農学科第一部にいたようですが、これはもうさほど詮索しなくてもよいのではないでしょうか。
 文語詩の創作において賢治は、おおむね事実を素材としながらも、登場人物にこの程度の虚構化はいろいろ行っていることです。

 それよりも重要なのは、作品以外に残された記録を調べてみることでしょう。
 保阪嘉内は、1919年12月から、一年志願兵として東京渋谷の近衛輜重兵大隊第二中隊に入営します。 1920年11月末の除隊までの間に、賢治が東京の嘉内にあてて出した書簡は13通が残っていますが、 いずれも親友に会いたいという気持ちが行間からにじむ一方、少なくともこの1年間は、直接に会った形跡はありません。
 1920年12月初旬に、除隊した嘉内は故郷の山梨に帰りますが、翌1921年1月に家出上京した賢治は、 真っ先に嘉内にこれを知らせました。2月の手紙(書簡187)では、「汽車賃は私が半分出します」とまで言って、 嘉内も東京へ来るよう勧めます。
 しかし、その後の賢治の書簡を見ても、国柱会への入会を迫る言葉が目立つばかりで、嘉内が東京に出てきて会った様子はありません。
 3月22日の嘉内の日記には、「賢治が泣き顔ぞおぼゆる/遥けき市川国府台にのぼりて江戸川を見/東京の空の煙を見るこゝち/賢治/健吉/ 遠きものにしあるかな」と記され、東京の景色が回想されるとともに、遠ざかる友情が偲ばれています。また、 すでに4月をまたいだ5月23日の日記には、「山梨教育会の理事長と酒を汲んで語り合い「我将来の方向やや決定的に見ゆ」」と書かれており、 後に彼が山梨教育会に就職することについて、この時に話し合われたようです。

 記録の上で保阪嘉内が次に東京に現れたのは、1921年7月1日から、再び甲種勤務演習に応召し、東京の兵舎に入営した時です。 これを嘉内から葉書で知らされた賢治は、7月3日付けの手紙(書簡194)で、「私もお目にかゝりたいのですがお訪ね出来ますか。」 「私は相変らずのゴソゴソの子供ですから名誉ある軍人には御交際が不面目かも知れませんよ。」「いづれお目にかゝれるかと思ひます。」 と書き送ります。照れながらも、「会いたくてたまらない」という感じですね。
 この文面からも、つい4月に二人が会ったばかりとは、私には思えません。

 そして、二人は結局、7月18日の運命的な再会と訣別に向かいます。この面会にかけられたエネルギーの大きさにも、長期間 (3年あまり?)の間に蓄積された思いを、一挙にぶつけたような雰囲気があり、3ヵ月前にも会っていた人どうしのものとは、 私には感じられないのです。

 結局のところ、「隅田川」の花見に保阪嘉内は同席していなかったのではないか、そこにいたのは関博士と賢治の二人か、 せいぜい博士の家族くらいではなかったかと、私は思います。そして、「なが弟子」とは賢治のことであり、 彼自身が故郷の母のことを懐かしんでいるのだろうと思います。

 ちなみに、桜の花があまり好きではなかったと言われていた賢治にしては珍しく、この年の春の作品には、桜がよく登場します。 上記の短歌八首もそうですし、文語詩「国柱会」にも、「台の上」 に見える上野公園の桜が描かれています。さすがに、東京の名所で目にした桜は見事だったのでしょうか。
 それから「国柱会」においても、東北線の列車に託して、故郷への思いが記されています。家出して3ヵ月、 そろそろ家が恋しくなってきていたようです。