昨日4月20日は、賢治が生前唯一出版した詩集『春と修羅』が刊行されてから、ちょうど100年目の記念日でした。
 また、やはり賢治が唯一出版した童話集『注文の多い料理店』は、同じ1924年の12月1日に、『春と修羅』から7か月あまり遅れで刊行されたのですが、実は一時この2冊は、1924年4月にほぼ同時に出版する計画もあったようなのです。

20240421a.jpg 右の画像は、1923年12月10日に東北農業薬剤研究所出版部(後の光原社)から刊行された『蠅と蚊と蚤』に挟み込まれていた、「図書注文用振替用紙」の一部です(『新校本全集』第12巻校異篇p.8より)。ここには、「少年文学 宮澤賢治著 童話 山男の四月」という見出しのもと、「発行予定四月中」と書かれています。
 そしてこの紙の裏面には、注文票の「書籍名」として、「山男の四月」との記載があり、当初は童話集のタイトルが『山男の四月』だったことがわかります。また、一緒に掲載されている書籍の発行年が、大正12年2月~13年3月であることからして、上記の「発行予定四月中」とは、大正13年(1924年)4月のことだったと考えられます。

 すなわち、童話集『山男の四月』の出版予定は、『春と修羅』が刊行されたのと同年同月だったのです。


放送大学講義「宮沢賢治と宇宙」

 この4月7日から、放送大学の講義「宮沢賢治と宇宙」が始まっています。その内容は、シラバスの「講義概要」で次のように説明されています。

宮沢賢治(1896年-1933年)は今から約百年前に活躍した作家である。わずか三十七年の生涯であったが、膨大な作品(童話、詩、短歌など)を遺した。自分の作品を心象スケッチと呼んだが、豊富な自然科学の知識が散りばめられているので科学の読み物としても高く評価できる。そこで、この講義では賢治の作品に基づいて、天文学の入門を試みる。

「宮沢賢治と宇宙('24)」シラバスより)

 YouTubeの「テレビ授業科目案内」では、4人の講師の先生が、それぞれの担当分野を簡単に紹介しておられます。


 『春と修羅』の「」が書かれた時期は、その文末に著者が「大正十三年一月廿日」と記していますから、もちろんこの日に違いはないでしょう。
 本日考えてみたいのは、賢治が「」を書いたこの日は、先日ご紹介したような『春と修羅』の編成経過の中では、どの「段階」に位置するのだろうか、ということです。

 入沢康夫さんが解明した『春と修羅』の編成経過は、非常に緻密なもので、編集作業の前後関係はこれでよくわかるのですが、各々の段階が暦年上のいつに当たるのかということは、大半が不明のままです。もしもその一部分でも、実際の年月がわかってくれば、賢治が『春と修羅』を編集した経過が、より具体的にイメージできるようになるのではないかと思うのです。


『春と修羅』末尾の作品

 賢治が生前唯一刊行した詩集『春と修羅』の冒頭の作品は、ご存じのように「屈折率」です。

  屈折率

七つ森のこつちのひとつが
水の中よりもつと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛あえんの雲へ
陰気な郵便脚夫きやくふのやうに
   (またアラツディン、洋燈ラムプとり)
急がなければならないのか

 題名の「屈折率」という言葉は、直接的には、「七つ森」の手前の一つが不思議に明るく大きく見えていることを、光の屈折のせいだろうかと作者が空想していることから来ているのでしょうが、恩田逸夫氏は、「自己の人生の進路が常人と異なっていて、平坦でなく屈折したものであるという意味をも含めている」と評していて、確かにそのような雰囲気も漂います。
 また、「郵便脚夫」について恩田氏は、「人々に幸福を配達する者という意味を含めているのであろう。それはけっして楽な道程ではないので「陰気な」としている」と述べるとともに、「〔手紙 四〕」に「わたくしはあるひとから云ひつけられてこの手紙を印刷してあなたがたにおわたしします」と記していることも付け加えます。以前から賢治は、手紙の配達人でもあったのです。
 さらに「アラツディン、洋燈とり」については、「賢治が「まことの幸福」という理想を獲得しようとすることを、『アラビアンナイト』のなかの、アラジンがいかなる望みでもかなう魔法のランプを手に入れる話にたとえている」と解釈しています。(恩田逸夫氏の注釈はいずれも日本近代文学大系『高村光太郎 宮澤賢治 集』より)


 98年前の今日、すなわち1926年3月24日の夜に、賢治は花巻農学校において、「ベートーヴェン百年祭記念レコードコンサート」を開催しました。
 この日中には農学校の卒業式があったのですが、教諭の堀籠文之進と生徒の平来作の話によれば、「校長室と職員室のしきりをとり、赤々と炭火が燃える大火鉢をかこんだ生徒にコレクションのレコードを聞かせた」(『新校本全集』年譜篇p.313)ということです。

20240324c.jpg このコンサートは、学校関係者だけでなく一般にも公開され、賢治の年長の友人である斎藤宗次郎も、招待され来場していました。斎藤は、内村鑑三の弟子のキリスト者で、もとは小学校教師をしていましたが、日露戦争の際に非戦論を唱えたことで退職に追い込まれ(花巻非戦論事件)、その後は新聞取次業を営んでいました。その敬虔な人となりから「花巻のトルストイ」とも言われ、農学校教師時代の賢治も彼の人柄を慕って、親しく交流していた人物です。
 右のイラストは、斎藤宗次郎が描いた、このベートーヴェン百年祭記念レコードコンサートの様子です(『二荊自叙伝』p.202より)。正面奧に見える黒い箱が、賢治愛用の蓄音器なのでしょう。


 血のつながった家族に限らず、広範囲の人々を兄弟姉妹と同じく大切な仲間と見なす態度や思想のことを、「同胞主義」あるいは「同胞思想」と呼びます。(「胞」は「胎衣えな」のことで、同じ母親から生まれた子供たちが、「同胞」です。)
 たとえばキリスト教でも、「天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(マタイによる福音書12:50)というイエスの言葉に表れているように、神への信仰を共有する人々はみな同胞である、という考えが根本にあります。

 宮澤賢治も、仏教への篤い信仰に基づき、全ての生き物は父母兄弟姉妹であるという考えを抱いていて、作品も含め様々な形でそれを表現しています。そして時にその思いは、一般の人々が持つ同胞意識をはるかに越えて、かなり独特な様相を呈することもありました。


犠牲の牛の話

島地大等像
『生々主義の提唱』口絵より

 浄土真宗を代表する学僧で、盛岡の願教寺の住職を務めていた島地大等(右写真)の講演を、賢治は中学3年の1911年に聴講し、その後も何度か講演会に足を運んだということです。また1918年には、大等が編纂した『漢和対照 妙法蓮華経』を読んで体が震えるほど感動し、以後この書を「赤い経巻」と呼んで尊崇していました。
 下の短歌は、盛岡高等農林学校1年の1915年夏に、願教寺の夏季仏教講習会に参加した際のものと推測されます。

255a256 本堂の
高座に島地大等の
ひとみに映る
黄なる薄明

 大等は、若い賢治の信仰や思想に、多大な影響を与えた仏教者の一人と言えるでしょう。

 さて、島地大等は1927年に逝去しますが、その三回忌にあたる1929年に、願教寺の門徒たちが刊行した遺稿集として、『生々主義の提唱』という小冊子があります。


 1924年に賢治の童話集『注文の多い料理店』が刊行されるにあたっては、その販売のために何種類かの「広告ちらし」や「広告葉書」が作成されました。その中でも「広告ちらし(大)」と呼ばれる大型版は、「イーハトヴは一つの地名である」から始まる有名なもので、執筆者は明示されてはいませんが、賢治が書いたとしか思えない独特の文章で綴られ、『新校本全集』にも「恐らくは賢治自身の文案によると考えられる」と記されています。
 下の画像は、その「広告ちらし(大)」の一部です。

20240222g.jpg
『注文の多い料理店』広告ちらし(大)の一部(『新校本宮澤賢治全集』第12巻口絵より)


 「光原社」というと、賢治が生前刊行した童話集『注文の多い料理店』の出版元で、現在も盛岡市材木町において、民芸品店・カフェとして営業している素敵なお店です。
 この光原社の創業者及川四郎の孫で、同社の現代表である川島富三雄氏が、『注文の多い料理店』の原稿に関し、これまでは知られていなかった「秘話」を、最近になって明かしておられます。

 まず、昨年12月21日付け朝日新聞岩手版に掲載された記事で、川島氏は次のように述べておられます。

 私は材木町の家で祖父と暮らしましたが、小学校の授業で「よだかの星」を読んだので、祖父に「賢治さんがどういう字を書く人なのか知りたいので、原稿を見せてほしい」と頼んだことがありました。
 すると祖父は「実は原稿を活字にして東京で印刷した後、直筆原稿を盛岡に持ち帰る際、上野駅で置き引きに遭ってしまい、今は残っていないのだ」と打ち明けました。
 これは、我が一族が他人にはほとんど語ったことのない、「注文の多い料理店」の原稿に関する「秘話」です。

 また、本年2月6日にテレビ岩手で放送された川島氏のインタビューは、今のところ下記のページで視聴することができます。


八幡館の八日間(2)

 前回は、賢治が東京の八幡館で高熱を発しながら、八日間にもわたって留まり続けたのはなぜだったのか、という疑問について考えてみました。

 その理由として仮説的に想定してみたのは、(1)回復を期待して待っているうちに長引いてしまった、(2)重症で動けなかったので遅れた、(3)今回の東京出張が命を懸けるほど重要と考えていた、(4)仕事のためでもなくただ自ら死のうとした、(5)親に心配をかけたくなかったから、などの要因でしたが、いずれも病状悪化の危険を冒してまで東京に留まった根拠と考えるには、不十分と思われました。

 その上で今回の記事では、現時点で私が考えている理由について、ご説明してみたいと思います。
 結論としては、当時の賢治の心情としては、(6)病気のまま花巻に帰った際に、以前にも増して周囲から向けられるであろう嘲りや蔑みを恐れて、帰郷を躊躇したのではないかと、私は思うのです。