1950年まで日本人の死因の第1位は結核でしたが、その後患者数は大きく減少し、その昔この病に深刻な差別や偏見が向けられていたことは、最近はあまり意識されていません。しかし戦前の日本において結核は、死の病として忌み嫌われるものでした。
作家・精神科医のなだいなだ氏は、自らの子供の頃の状況について、次のように書いています。
結核患者の出た家の前を、鼻をつまんで走って通ったことを覚えています。その家の前の空気を吸うと結核がうつるといわれ、本人どころか、家族にも近づこうとしませんでした。もちろん、家族に結核患者がいるという理由で、結婚を取り消されるような場合もありました。親は公然と「あそこの子供とは遊ぶな、あそこの家の兄さんは肺病だからな」と言っていたくらいです。
(なだいなだ「偏見と差別について」1985)
なだいなだ氏は1929年生まれですから、その子供時代は宮沢賢治の晩年と重なる1930年代です。氏は生まれも育ちも東京で、因習の支配するような僻地の話ではありません。
花巻の宮沢家では、妹トシと賢治が結核で亡くなり、母イチも結核に罹患していたということですが、実際に周囲からはどのように見られていたのでしょうか。上のような当時の結核のイメージからすると、発病後の賢治のことも気になります。
「詩ノート」所収の「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」は、幻想的で、儚く切ない作品です。
一〇五七
五、七、
古びた水いろの薄明穹のなかに
巨きな鼠いろの葉牡丹ののびたつころに
パラスもきらきらひかり
町は二層の水のなか
そこに二つのナスタンシヤ焔
またアークライトの下を行く犬
さうでございます
このお児さんは
植物界に於る魔術師になられるでありませう
月が出れば
たちまち木の枝の影と網
そこに白い建物のゴシック風の幽霊
肥料を商ふさびしい部落を通るとき
その片屋根がみな貝殻に変装されて
海りんごのにほひがいっぱいであった
むかしわたくしはこの学校のなかったとき
その森の下の神主の子で
大学を終へたばかりの友だちと
春のいまごろこゝをあるいて居りました
そのとき青い燐光の菓子でこしらえた雁は
西にかかって居りましたし
みちはくさぼといっしょにけむり
友だちのたばこのけむりもながれました
わたくしは遠い停車場の一れつのあかりをのぞみ
それが一つの巨きな建物のやうに見えますことから
その建物の舎監にならうと云ひました
そしてまもなくこの学校がたち
わたくしはそのがらんとした巨きな寄宿舎の
舎監に任命されました
恋人が雪の夜何べんも
黒いマントをかついで男のふうをして
わたくしをたづねてまゐりました
そしてもう何もかもすぎてしまったのです
ごらんなさい
遊園地の電燈が
天にのぼって行くのです
のぼれない灯が
あすこでかなしく漂ふのです
「農民芸術概論綱要」の中に、次の言葉があります。
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
この「求道すでに道である」という言葉は、同じく「農民芸術概論綱要」にある「永久の未完成これ完成である」とともに、生涯にわたって「求めつづけた」人である、宮沢賢治の思想や生き方を、象徴するものとも感じられます。
今日はこの言葉について、考えてみたいと思います。

花巻市妙円寺「農民芸術概論綱要」碑
「野の師父」は、比較的小品が多い「春と修羅 第三集」の中では最長の作品で、下記がその全文です。
豪雨と雷鳴の中、賢治は一人の老農夫のもとへやって来ました。
一〇二〇
野の師父
倒れた稲や萓穂の間
白びかりする水をわたって
この雷と雲とのなかに
師父よあなたを訪ねて来れば
あなたは椽に正しく座して
空と原とのけはひをきいてゐられます
日日に日の出と日の入に
小山のやうに草を刈り
冬も手織の麻を着て
七十年が過ぎ去れば
あなたのせなは松より円く
あなたの指はかじかまり
あなたの額は雨や日や
あらゆる辛苦の図式を刻み
あなたの瞳は洞よりうつろ
この野とそらのあらゆる相は
あなたのなかに複本をもち
それらの変化の方向や
その作物への影響は
たとへば風のことばのやうに
あなたののどにつぶやかれます
しかもあなたのおももちの
今日は何たる明るさでせう
豊かな稔りを願へるままに
二千の施肥の設計を終へ
その稲いまやみな穂を抽いて
花をも開くこの日ごろ
四日つゞいた烈しい雨と
今朝からのこの雷雨のために
あちこち倒れもしましたが
なほもし明日或は明后
日をさへ見ればみな起きあがり
恐らく所期の結果も得ます
さうでなければ村々は
今年もまた暗い冬を再び迎へるのです
この雷と雨との音に
物を云ふことの甲斐なさに
わたくしは黙して立つばかり
松や楊の林には
幾すじ雲の尾がなびき
幾層のつゝみの水は
灰いろをしてあふれてゐます
しかもあなたのおももちの
その不安ない明るさは
一昨年の夏ひでりのそらを
見上げたあなたのけはひもなく
わたしはいま自信に満ちて
ふたゝび村をめぐらうとします
わたくしが去らうとして
一瞬あなたの額の上に
不定な雲がうかび出て
ふたゝび明るく晴れるのは
それが何かを推せんとして
恐らく百の種類を数へ
思ひを尽してつひに知り得ぬものではありますが
師父よもしもやそのことが
口耳の学をわづかに修め
鳥のごとくに軽佻な
わたくしに関することでありますならば
師父よあなたの目力をつくし
あなたの聴力のかぎりをもって
わたくしのまなこを正視し
わたくしの呼吸をお聞き下さい
古い白麻の洋服を着て
やぶけた絹張の洋傘はもちながら
尚わたくしは
諸仏菩薩の護念によって
あなたが朝ごと誦せられる
かの法華経の寿量の品を
命をもって守らうとするものであります
それでは師父よ
何たる天鼓の轟きでせう
何たる光の浄化でせう
わたくしは黙して
あなたに別の礼をばします
つい先日、「広島の原爆供養塔に宮沢賢治の雨にも負けずの詩を刻んだ石碑があります」との情報をいただきましたので、昨夜は広島市内に泊まり、今朝その「雨ニモマケズ」詩碑を見学してきました。

原爆供養塔
原爆供養塔は、上写真のような「土饅頭」の上に、石造の相輪が立てられたもので、内部には原爆の犠牲になった身元不明の遺骨約7万柱と、氏名のみ判明している遺骨812柱(2025年現在)が納められています。
「春と修羅 第二集」所収の「嬰児」という詩は、当初「下書稿(一)」の第一形態では、「触媒」と題されていました。
五二
触媒
一九二四、四、一〇、
なにいろをしてゐるともわからない
ひろぉいそらのひととこで
まばゆい黝と白との雲が
つぎからつぎと爆発する
(あすこに海綿白金がある)
それはひとつづゝヘリオスコープの照面を過ぎて
いっぺんごとにおまへを青くかなしませる
(雲なら済むも済まないも
みんなこっちのかんがへだ)
風は緑褐に膨らんだ
おそろしい杉の梢を鳴らす
空に浮かぶ「黝と白との雲」が、上空の風によって流され、次々と太陽の前を通り過ぎていきます。太陽を横切る際に、雲は急に激しく輝くので、まるで爆発が起こったかのように見えるのでしょう。賢治はこれを、「あの雲は実は海綿白金で、これが触媒となって爆発が起こっている」という風に、化学実験のように見立てているのです。
実際のところ、水素と酸素の混合気に海綿白金を触れさせると、その触媒効果によって爆発的に反応が起こり水蒸気が発生しますが、賢治は盛岡高農時代に、この種の実験を経験していたのではないでしょうか。

宮沢賢治は、死を前にした1933年夏に、後に全集編纂時に「定稿用紙」と呼ばれることになる特注の詩稿用紙を作成し、詩の清書に用いました。
下記は、そうやって書かれた「定稿」の例です。

「定稿」の例(『新校本宮澤賢治全集』口絵より)
この段階の詩稿がいかにも「清書」と感じられるのは、この用紙への記入にあたって、賢治は原則として鉛筆等を用いず、最初からブルーブラックインクのペンを用いていることにもよります。
それ以前の推敲に使われていた「赤罫詩稿用紙」や「黄罫詩稿用紙」の場合は、最初は鉛筆によって記入される場合がほとんどなのですが、「定稿用紙」ではブルーブラックのペンが使われるのです。
そして、この「定稿記入」という段階から推敲過程をもう一段階さかのぼって、その直前の稿における最終推敲で使われた筆記具を見てみると、口語詩においては、これもやはりブルーブラックインクのペンであることが、かなり多いのです。
推敲が「定稿」まで進んだ作品に関して、その関連性を表にすると、次のようになっています。「BBインク」は、「ブルーブラックインク」の略です。
下根子桜の農家に生まれた伊藤与蔵は、賢治より14歳年下で、その耕地が賢治の「下ノ畑」の隣だった縁もあり、羅須地人協会の設立以来の会員でした。伊藤の自宅が火災に遭った際には、賢治が後始末を手伝ったとのことですし、1928年の第1回普通選挙では、賢治に誘われて労農党候補の演説会場に一緒に行ったということです。
賢治の病気等によって羅須地人協会が立ち消えになった後、20歳になった伊藤は、1931年1月に弘前の歩兵第三十一聯隊に入隊し、同年9月に満州事変が起こると満州に派兵されました。『鉄兜 : 満洲戦記』という記録で聯隊の動きを見ると、派兵時期は1931年11月または1932年4月の二つの可能性がありえますが、現時点で手元の資料からは、どちらともわかりません。
いずれにせよ、1933年正月に賢治が伊藤に出した年賀状(書簡442c)のあて先は、「満洲国欽州憲兵隊」になっています。
その満州にいる伊藤から、1933年夏に賢治に手紙が届きました。賢治は入念に下書きをした上で、1933年8月30日(死の3週間前)付けで、返事を出します(書簡484a)。
その中に、次のような一節がありました。
然しながら亦万里長城に日章旗が翻へるとか、北京(昔の)を南方指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返ってゐるといふやうなことは、私共が子供のときから、何べんもどこかで見た絵であるやうにも思ひ、あらゆる辛酸に尚よく耐えてその中に参加してゐられる方々が何とも羨しく(と申しては僭越ですがまあそんなやうに)感ずることもあるのです。
殊に江刺郡の平野宗といふ人とか、あなたとか、知ってゐる人たちも今現にその中に居られるといふやうなこと、既に熱河欽州の民が皇化を讃へて生活の堵に安じてゐるといふやうなこと、いろいろこの三年の間の世界の転変を不思議なやうに思ひます。(強調は引用者)
来週10月26日(日)に岩手県大槌町で、「宮沢賢治三陸旅の謎 in 大槌」というイベントが開催されます。

「農民芸術概論綱要」の「農民芸術の(諸)主義」の項に、次のような一節があります。
芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する
芸術としての人生は老年期中に完成する
人生の各時期における芸術の位置づけを、簡潔に三つにまとめていますが、賢治の芸術観や人生観もうかがわれるようで、興味深いです。
ここでは、「芸術のための芸術」、「人生のための芸術」、「芸術としての人生」というあり方が、それぞれ少年期、青年期、老年期に対応させられていますが、これらは各々具体的にはどういうことなのでしょうか。