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種山ヶ原 詩群

1.対象作品

『春と修羅 第二集』

366 鉱染とネクタイ 1925.7.19(下書稿手入れ)

368 〔種山ヶ原〕1925.7.19(下書稿(一)第一形態)

368 種山ヶ原 1925.7.19(下書稿(三)手入れ)

369 岩手軽便鉄道 七月(ジャズ) 1925.7.19(定稿)

「春と修羅 第二集補遺」

〔朝日が青く〕(下書稿(二))

〔おれはいままで〕(下書稿)

〔行きすぎる雲の影から〕(下書稿(二))

若き耕地課技手の Iris に対するレシタティヴ(下書稿手入れ)


「口語詩稿」

〔高原の空線もなだらに暗く〕(下書稿手入れ)

2.賢治の状況

 これらの詩の内容から推測すると、賢治は7月18日(土)の夜は北上山地のどこかの峡で宿泊(例によって野宿?)し、翌19日(日)は早朝から日暮れちかくまで種山ヶ原を歩きまわって、なにか学校のための教材を集めるなどしたのだと思います。そのあと、岩手軽便鉄道の最終列車に乗って、花巻に帰ってきたのでしょう。

 この詩群の中心をなす「三六八 種山ヶ原」は、最終形態を読むだけでは何げない小さな詩ですが、その「下書稿(一)」を見ると、これがもともとは「パート一」~「パート四」の四つのパートから成る長大な作品として構想されていたことがわかります。
 もしも、この最初の構想が生きつづけていたら、これは賢治の全詩作品のなかでも、『第一集』のあの「小岩井農場」に次ぐような大作になっていたかもしれないと、思ってみたりもします。

 しかし現実には、この各パートはばらばらに解体され、作品番号や日付も失いながら推敲されていくという運命をたどります。そのうちの一つの断片だけが「三六八 種山ヶ原」となり、残りは『春と修羅 第二集補遺』に分類される諸作品になります。
 この過程の草稿群の複雑に錯綜した様子は、「草稿一覧」の該当箇所をご覧ください。

 「三六六 鉱染とネクタイ」のスケッチ日付にかんしては、ひとつ疑問があります。この作品は7月19日の日付をもっていますが、作品番号からも詩の内容からも、実際には種山ヶ原散策の前夜、7月18日晩のスケッチだったのではないかと思うのです。
 「峡いっぱいに蛙がすだく」という表現からも、「ここらのまっくろな蛇紋岩には」という記述からも、この晩に賢治が北上山地の山中にいたことはたしかだと思います。(賢治は、作品のなかで北上山地を描写するとき、いつもその地質が蛇紋岩に富んでいることを意識していました。)
 ところが、作品中に出てくる7月19日の「蠍の赤眼」(アンタレス)の南中は午後9時すぎですが、この時刻には賢治はすでに岩手軽便鉄道の車中の人になっていたはずなのです。この作品中の時刻からは、18日の晩から夜半を過ぎて、日付が19日に変わってからのスケッチと考えることも困難です。
 したがって、「三六六 鉱染とネクタイ」のスケッチ日付の7月19日は、7月18日の誤記だったのではないでしょうか。

 「三六九 岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」は、ちょっと羽目をはずした楽しい作品です。賢治の童話には、いろいろユーモラスなものもありますが、詩作品(とくに『第二集』以降)のなかでは、このような陽気な調子は珍しいものです。「イリドスミン」や「鉱染」など前夜の空想や、昼間に集めたイリスなども、にぎやかに顔を出します。

 この作品中で描かれているように、岩手軽便鉄道を西向きに乗ると、かなりの坂道を下りてくることになっていました。仙人峠のあたりから北上川の河畔まで来るのですから無理もありません。
 これは、「銀河鉄道の夜」の「九、ジョバンニの切符」のなかの、次の箇所を連想させます。
「『えゝ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易ぢゃありません。…』 …どんどんどんどん汽車は降りて行きました。・・・室中のひとたちは半分うしろの方へ倒れるやうになりながら腰掛にしっかりしがみついてゐました…」


種山の頂上から