「農民芸術概論綱要」碑
1.テキスト
まづもろともに
かがやく宇宙の微塵と
なりて
無方の空にちらばらう
2.出典
「農民芸術概論綱要」
3.建立/除幕日
1948年(昭和23年)11月10日 建立/12月10日 除幕
4.所在地
岩手県一関市東山町 新山公園
5.碑について
JR大船渡線の猊鼻渓駅で下車して、北東の方向に20分ほど歩いたところ、東山町役場の裏山のような公園に、碑はあります。高さが2.5mもある、堂々たる石碑です。
東山町は、賢治が晩年に嘱託技師として勤めた「東北砕石工場」があった町で、この賢治との縁にあやかって、平成7年には「グスコーブドリのまち・東山」なる宣言をしています。
東北砕石工場の仕事で、賢治は石を砕くどころかまるで自分の身体を砕くかのごとく働き、当然の帰結のように病に倒れて、死の床に就くことになりました。
それは直接には、石灰肥料を少しでも広めることで、東北の酸性土壌を改善できると信じたためでもあるのでしょう。しかし、あたかも「死に急ぐ」かのようなその振舞いは、火山技師グスコーブドリが、農村を凶作から救うという名目で自らを犠牲にして、火山の爆発とともに自分の身体を「宇宙の微塵」にしてしまったことと、相通ずるものがあるように感じられてしまいます。
私は、宮澤賢治には、このような「自己身体粉砕願望」とでもいうべきものがあったのではないかと、思っています。
その意味で、ほかならぬこの東山町に、「宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という石碑が建てられているというめぐり合わせは、私にとっては悲痛なアイロニーとしか言いようがありません。
この碑が建てられたのは1948年で、数ある賢治関連の石碑のなかでも、あの羅須地人協会跡の「雨ニモマケズ」詩碑につづいて、二番目に古いものだということです。
揮毫は、宮澤賢治の研究家としても有名な、哲学者 谷川 徹三 氏です。
徹三 氏の息子 谷川 俊太郎 氏は、この碑に関連して、次のような文章を書いています。
父の部屋に入ると、畳の上いっぱいに何枚もの大きな紙がひろげられていて、そこに私は「まづもろともに かがやく宇宙の微塵となりて 無方の空にちらばらう」という父の筆のあとを見る。不意に私は自分のからだそのものが、その言葉と化して、しぶきのように飛び散るかのような不思議な感覚を味わう、ほとんど無に等しい稀薄な空間を、光の速度で遠くへと飛散していく私、そこには一種の恍惚があった。微塵となっているくせに、私は私なのだった、他の微塵とはますます離れ離れになっていくのだった。私は訳の分らない涙が、胸の中にわき上るのを感じた。(「ユリイカ」1977年9月号臨時増刊)
宮澤賢治の「自己身体粉砕願望」の背景にあるのは、自己に対する嫌悪や否定とともに、このような一種の恍惚・陶酔感だったのではないかと、私は思っています。
碑の前から東山町を望む
(中央の山には石灰岩採掘の傷痕。山の右下隅に、東北砕石工場があった。)