「二川こゝにて会したり」詩碑

1.テキスト

 〔二川こゝにて会したり〕
           宮澤賢治

(二川こゝにて会したり)
(いな、和賀の川水(みづ)雪代ふ
 夏油(ゲタウ)のそれの十なれば
 その川ここに入ると云へ)

藍と雪とのうすけぶり
つらなる尾根のかなたより
夏油(ゲタウ)の川は巌截りて
ましろき波をながしきぬ

2.出典

〔二川こゝにて会したり〕(下書稿(二)手入れ)」(『〔文語詩未定稿〕』)

3.建立/除幕日

1990年(平成2年)11月20日 建立/12月17日 除幕

4.所在地

北上市和賀町岩崎新田 入畑ダム展望広場

5.碑について

 この文語詩は、例によって賢治の晩年に書かれたものですが、その初期形態は、青年期の「冬のスケッチ」にまでさかのぼります。この詩のもとになった体験は、賢治が盛岡高等農林学校の研究生として、地質調査のために岩手県内の各地を踏査していた頃(おそらくは1918年早春)のものと思われます。

 「二川」とは、詩の中にも出てくるように、北上川の支流の和賀川と夏油(げとう)川で、これらは北上市内の下江釣子付近で合流します。
 雪どけのために増水した和賀川の水量は、もう一方の夏油川の十倍にもなっているので、二つの川が「会す」のではなく、夏油川が和賀川に「入る」と云うべきであるという問答を、誰かと誰かがかわしているようです。

 ところで賢治は、これ以外にもいくつか、川の合流を題材にした詩を残しました。
 やはり詩碑にもなっている「川ふたつ/ここに集ひて…」(「〔二山の瓜を運びて〕」)や、「〔川しろじろとまじはりて〕」などです。
 じつは宮澤賢治という人は、「二つの川が合流する」という現象に対して、なにか特別の思い入れを持っていたのではないかと、私は思っています。

 これらの作品に共通するのは、二つの川の出会いに象徴させて、「二人の人間のかかわり」というものを描いているところなのではないでしょうか。
 「〔二山の瓜を運びて〕」では、老人とその孫の情景が、微笑ましく描かれています。二人が戯れる様子が、二つの川の合流点でさざめく水の泡に喩えられているかのようです。
 これとは対照的に、「〔川しろじろとまじはりて〕」という作品では、「下書稿(一)」に表われているように、孤独な「われ」は遠くにある「きみ」を思いつつも、ふたたび会いたいというその願いのかなわないことを知っています。この孤独感は、「二つの水はまじはらず」というところに隠喩として表現されていますが、北上山地から出てきた猿ヶ石川の水は、平野を流れてきた北上川のそれよりもはるかに水温が低いために、合流後も混じりあわないというのです。

 宮澤賢治はその生涯において、結婚もせず、孤高を貫きとおしました。
 「私は一人一人について特別な愛というようなものは持ちませんし持ちたくもありません」(書簡252a)と書いたり、「わたくしはどこまでも孤独を愛し/熱く湿った感情を嫌ひますので」(『春と修羅 第二集』の序)と書いたりした賢治ですが、これは本当は彼の生来の傾向ではなかったのではないでしょうか。
 人との親密さの忌避とも言うべきこのような彼の心理は、青年時代に無二の親友保阪嘉内との断絶を味わい、また愛する妹トシを喪うという経験をくぐり抜けるうちに、否応なく身につけた一種の防衛機制だったのではないかと、私は思っています。後年の上記のような言葉にもかかわらず、これらの別離に際して、現実の賢治がいかに「特別な愛」や「熱く湿った感情」に苛まれたかということは、当時の書簡や作品に生々しく残されています。
 また、「銀河鉄道の夜」の一つの主題も、ある一人の人と「どこまでもどこまでも一緒に行かう」とすることを激しく希求しつつ、それを結局は断念せざるをえなかった悲しいいきさつと、その昇華であると言えましょう。

 そのような屈折した心理をかかえた賢治にとって、「二つの川が合流して、そのあとずっと一緒に流れていく」という有り様は、言いようのない憧れをかきたてるものだったのではないでしょうか。


 現在この詩碑が建てられているのは、夏油川の上流にある「入畑ダム」の展望台です。近くには、夏油温泉や瀬美温泉があって、ひなびた雰囲気を楽しめます。
 このダムの展望台からは、詩にあるように夏油川の流れや、はるかかなた青くけぶる北上平野を見渡すことができました。


入畑ダム展望台より北上平野を望む (2000.8.27)