賢治が用いた「詩稿用紙」について
I 総論
『【新】校本宮澤賢治全集』においては、以下の四種のテキストが、「草稿」と総称されています。
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作者自筆草稿
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生前作者の依頼により作成された筆写稿で、その一部もしくは 全体にわたって作者の自筆手入れがなされている草稿
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生前作者が、上二者を組み合わせて校正した草稿
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生前作者が自ら謄写印刷した詩稿 (現存一葉のみ)
つまり、作者の意思が直接に反映された証拠のあるテキストで、生前に出版されたもの以外を、すべて「草稿」と呼ぶわけです。
(「定稿」と呼ばれていても、同時に「草稿」の一種であるという、やや逆説的な現象も起きますが、これは賢治の作品の独特の性格とも関連しています。)
この「草稿」が記されている用紙は、『【新】校本全集』において、以下のように分類されています。
┏原稿用紙・・(14種類…下位分類 略) ┃ ┃ ┃ ┏赤罫詩稿用紙 ┃ ┃ ┃ ┣黄罫詩稿用紙 ┣詩稿用紙・・┫ ┃ ┣無罫詩稿用紙 ┃ ┃ ┃ ┗定稿用紙 草稿用紙┫ ┃ ┃ ┃ ┏五線ノート紙 ┃ ┃ ┣罫紙・用箋等╋ノート紙 3種類(略) ┃ ┃ ┃ ┗その他 4種類(略) ┃ ┃ ┗その他の用紙(8種類…下位分類 略)
全集編集者が、ことさら用紙の種類までも細かく特定し分類する理由は、これがその草稿の成立時期を推定する上で、重要な手がかりだからです。「草稿一覧表の見かた」でも述べたように、時間という軸は、賢治の作品世界を見わたす上で、特別な意味をもつのです。
上記のうちで、「原稿用紙」に属する用紙は、『春と修羅』の草稿のほとんどに用いられていますが、「春と修羅 第二集」や「春と修羅 第三集」の作品では、雑誌発表用原稿のために使われている程度にすぎません。
また、「罫紙・用箋等」に属する用紙では、「五線ノート紙」が「春と修羅 第二集」の一部の作品の、詩稿用紙転記以前の草稿に用いられています。「ノート紙」は、「春と修羅 第三集」のかなりの作品の、詩稿用紙転記以前の草稿に用いられており、全集では「詩ノート」として分類・掲載されています。
しかし何といっても、賢治の詩作品において、現存草稿用紙の中心をなすのは、「詩稿用紙」として分類される、一群の用紙です。
この「詩稿用紙」とは、他の原稿用紙などよりもはるかに厚手の上質洋紙を用いて、賢治が自分で印刷所に印刷させるなどして罫線を入れた、独自の工夫とデザインによる、「詩専用の特注紙」でした。
おそらく賢治は、『春と修羅』制作時に厖大な推敲を行った経験から、通常の原稿用紙などでは不都合を感じて、自分の詩作スタイルに合った新しい用紙を模索したのだと思います。
結果として形となった「詩稿用紙」は、後からも詩テキスト周囲に大量の書き込みを加えることができて、さらに各々をカード式データのように管理することが可能な、賢治にとって画期的な用紙になったようです。
1925年頃のある時期に、赤罫詩稿用紙の使用が開始されると、その上で「詩=心象スケッチ」は、まるで水を得た植物が繁茂するように、すさまじい勢いで転化転生を始めます。
II 各論
本サイトの 「春と修羅 第二集」関連草稿一覧 および 「春と修羅 第三集」関連草稿一覧 では、『【新】校本全集』における上記の草稿用紙分類を簡略化し、用紙の使用のおおまかな時間的な順序に従って、現存しているテキストを以下のような5つの範疇に分けました。
1.「詩稿用紙」以前の形態
多くの人の証言によると、賢治の口語詩(=心象スケッチ)は、まず最初はその着想とともに、手帳あるいはスケッチブックに、すばやく「スケッチ」されるという形で生まれたようです。
そして、後でそれを推敲しながら何らかの他の用紙に書き写すという「改稿」を経たのちに、「詩稿用紙」に転記されるという経過をとったと考えられています。
残念ながら、「春と修羅 第二集」の作品に関しては、「詩稿用紙」に転記される以前の草稿は、ごく少数しか現存していませんが、「第三集」では、「詩ノート」と通称されるノート紙の束に、大量の草稿が残っています。
「春と修羅 第二集」の、「詩稿用紙以前の形態」としては、大きく分けておもに次の二種類のテキストが現存しています。
一つは、「一六六 薤露青」のように、五線ノート紙に書かれているテキストです。この形で残っている草稿は、現在は少数ですが、じつは他にも多くの作品が、いったんはまとめて五線紙に転記された段階があったのではないかという説もあります(杉浦静氏など)。
あともう一つの種類のテキストとしては、この時期の草稿が作者によって雑誌などに発表されて、それが現在まで残っていたという場合があります。
「春と修羅 第三集」においては、作品分類上の「詩ノート」が、「詩稿用紙以前の草稿形態」と、ほぼ重なることになります。ここには97篇の草稿が収められており、ことに1927年以降では、ほとんどすべての作品の初期形態を見ることができます。
この段階は、賢治がさらにそれ以前の草稿(手帳またはスケッチブック?)から、作品を取捨選択しつつ転記し、「作品番号」を付与していった場であろうと推測されています。
2.赤罫詩稿用紙
前述のように、賢治は上質洋紙を用いて、これを印刷所に作らせました。名前のとおり、用紙に赤色の縦28行の罫線が入っており、両面印刷です。
罫線の周囲には、かなりの余白がとってあり、後から多くの書き込みが可能になっています。(右の草稿にも、薄い字ですが周囲にびっしりと書き込みがなされています。)
使用されていた時期は、遅くとも1925年12月から始まって、下限は1930年の夏か秋頃までと推定されています。
この用紙の使用開始は、賢治がのちの「春と修羅 第二集」に相当する作品集をまとめようと企画したことと関連しているのではないかと思われます。
「春と修羅 第三集」の草稿にも、赤罫詩稿用紙は使われていますが、「第二集」よりははるかに少数にとどまっています。
3.黄罫詩稿用紙
これも、赤罫用紙と同様の上質洋紙の上に、こんどは賢治自身が謄写版印刷で、黄緑色のインクの罫線を刷りこんで作成したものです。
行数は22、24、26などいくつかの種類がありますが、当サイトでは区別していません。
使用されていた時期は、1930年秋頃から、最下限では1933年の7月にまで至ります。
常にこの用紙上には、赤罫詩稿用紙上の草稿よりも、後の推敲形態が記されているのが特徴です。
この用紙の使用開始時期は、賢治が2年の病臥からひとまず回復して、東北砕石工場の技師を嘱託された頃に相当します。
生活全般において、ふたたび活動的になるとともに、それまでの詩作品に対しても、あらたな推敲が開始されています。
「春と修羅 第二集」の推敲が、赤罫詩稿用紙の上をおもな舞台としていたのに対して、黄罫詩稿用紙は「第三集」の推敲において、さかんに用いられています。第三集」の多くの作品は、「詩ノート」から赤罫を経ずに黄罫詩稿用紙に転記されて、推敲されるという経過をたどります。
4.その他の用紙上の形態
この分類のテキストの大部分を占めるのは、詩稿用紙が使用されるようになった1925年末以降に、雑誌に発表された形態です。この形態に属するすべてが、赤罫詩稿用紙や黄罫詩稿用紙上の下書稿を持っており、発表形はその改稿形の一種と見なすことができます。
雑誌発表形以外では、「三六八 種山ヶ原」の下書稿、エスペラント詩稿など、「原稿用紙」に記された形態が一部あります。
また、「春と修羅 第二集」のなかでは、「三七二 渓にて」のみが、「無罫詩稿用紙」に下書きされています。
5.「定稿用紙」上の形態
賢治は、1933年すなわち没年の6月に、それまでの詩稿用紙よりもさらに厚手の上質洋紙を用いて、印刷所に注文して新たな詩稿用紙を作らせました。罫線は赤色で、26行です。
おそらく、己れの死が近づくのを意識して、この特注の用紙に、「人生の最終形態」となる可能性のある草稿を、力のつづくかぎり記入しておこうとしたのでしょう。
これが、通称「定稿用紙」です。
しかし、実際にこの紙を使うことができる期間は、彼にあと3ヶ月しか残されていませんでした。
その限られた時間と健康状態を反映してか、この用紙の上には、他の詩稿用紙の場合のような膨大な推敲の書き込みは見られず、一部の作品において多少の「手入れ」がおこなわれるにとどまっています。
6.テキスト表示の背景との対照
「春と修羅 第二集」「第三集」関連草稿一覧 における草稿の分類と、この表の作品名をクリックした時に別ウィンドウで開くテキスト表示の背景イメージとを対照して表にすると、下のようになります。
「草稿一覧」での分類 | テキスト表示の背景 |
「詩稿用紙」以前の形態 | 手帳 |
五線ノート紙 | |
ノート紙 | |
雑誌発表形 | |
「赤罫詩稿用紙」上の形態 | 赤罫詩稿用紙 |
「黄罫詩稿用紙」上の形態 | 黄罫詩稿用紙 |
その他の用紙上の形態 | 雑誌発表形 |
原稿用紙 無罫詩稿用紙 罫紙・用箋・半紙 等 |
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「定稿用紙」上の形態 | 定稿用紙 |