開墾と教育の人、高野一司

 1926年(大正15年)1月から3月まで開講された「岩手国民高等学校」において、同校主事を務めた高野一司は、宮澤賢治と深い関わりを持つことになりました。
 この二人の間の興味深いエピソードとして、『新校本全集』第16巻(下)年譜篇には、次のような記載があります。

 国民高等学校の主事は県社会教育主事の高野一司で、はじめから仲がよく、留守の時は賢治が代理をした。このふたりがあるとき猛烈な雪合戦をはじめ、ついには組み打ちになって雪の上をころげまわった。しばらくしてふたりは頭からぼやぼや湯気を上げ、洋服の雪を払いながら笑い合った。このような烈しい賢治の姿を見たことは初めてであったと、農学校、国民高等学校の生徒であった平来作は言う(関『随聞』一八一頁)。
 高野主事については「文語詩篇」ノートに「偽善的ナル主事、知事ノ前デハハダシトナル」ともあり、あるいはそこで公憤があらわれたと見られなくもない。(p.331)

 「はじめから仲がよく」と見られていた一方で、時に烈しい組み打ちをしたり、後に「偽善的」などと評したりするというのは、実際のところ賢治はこの人物に対して、どういう感情を抱いていたのでしょうか。

 今回はこの高野一司という人の生涯を、手元で知りうる範囲でたどってみたいと思います。

 まず、高野一司については、『新校本全集』第15巻校異篇に、次のように略歴が紹介されています。

高野一司(明二一・七・五~昭二三・一〇・二三)。新潟県中頸城郡板倉村出身。明治四十三年東京帝国大学農科大学卒業。大正十四年七月岩手県の社会教育主事(職名はたびたび変更を経て社会事業主事となる)となり、岩手国民高等学校を開設した。昭和二年二月宮城県農林技師に出向。広淵沼開墾地を手がけた後、昭和七年から十六年まで岩崎開墾地の事務所長。後、中国(満州)でも農場の開設に従事し、戦後帰国。

 明治21年(1888年)生まれということは、賢治の8歳年上です。板倉村は現在は上越市の一部で、新潟県西部の内陸にあります。以下に述べるように、高野は大学を出ると東北~北海道を転々として、後に満洲にも渡っていますが、故郷新潟に居を定めたことはなかったようです。
 こういう生き方をする人は、何か自らの故郷や生育環境に対して思うところがあったのかもしれませんが、具体的なことはわかりません。賢治が基本的には花巻で一生を送ったのとは、対照的です。

1.東京帝国大学農科大学実科

 さて、高野一司の経歴をたどるため、例によって国会図書館デジタルコレクションで検索をしてみると、年代順で最初にヒットするのは、『東京帝国大学一覧 明治41-42年』です。この年度の「農学実科 第二年」に、「高野 一司 新潟 平」の名前が見えます。

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 農科大学校の「実科」というのは、エリートの「本科」が学者や農政官僚の養成を目的とするのに対し、カリキュラムも実習が主体で、農村における指導者を育成するのが主目的とされ、修業期間は上記のように3年でした。入学資格も「田畑所有者またはその子弟」と定められていましたので、高野一司の家も村の地主などだったのでしょう。
 それでも新潟からわざわざ東京帝国大学に入るのですから、非常に優秀で、また親も教育熱心だったに違いありません。

2.群馬県利根郡郡役所農業技手

 大学の次に高野一司の名前が国会図書館デジタルコレクションに現れるのは、地方官吏の名簿である『職員録 明治45年(乙)』です。ここで高野は、群馬県利根郡役所の農業技手および郡立農蠶講習所の技手として、名前が掲載されています。東京帝大を卒業すると、群馬県の役所に就職したのでしょう。明治44年の『山林公報』には、この年の農商務省主催林野講習を、郡農業技手の高野一司が修了したことも出ています。

 その後、『職員録 大正4年乙』までの毎年、高野は群馬県利根郡の農業技手として名前が掲載され続けますが、境遇が大きく変化するのが、翌大正5年(1916年)の『人道』という雑誌の「個人消息」に掲載されている、次の記事です。

3.北海道家庭学校農場主任

●高野一司氏 今回新にサナプチ農場農業主任として就任せられたる同氏は、去る六月二十七日当校に来られ、三十日当地出発、四日農場に著せられたり。

 上に出てくる「サナプチ(社名渕)農場」とは、牧師や教誨師をしていた留岡幸助が、1914年に北海道北見の上湧別村に開設した「北海道家庭学校」の附設農場です。「家庭学校」とは、非行少年や孤児を保護して感化教育を行うために留岡が造った施設で、夫婦の職員とともに少年たちが農業に従事しつつ家族のように生活することにより、精神の涵養や成長を目ざすというものでした。(この北海道家庭学校は、創設から100年以上経った今も、児童自立支援施設として昔と同じ場所で存続しています。)
20231008c.jpg 高野がどのような経緯で群馬県の役所を辞めて、北海道の辺境の感化施設の農場で働くことになったのか、具体的なことはわかりませんが、ここで本記事のタイトルにも記した「開墾」と「教育」という彼の人生の二大テーマに、正面から取り組むこととなったわけです。
 高野は、当初はサナプチの第一農場の主任をしていましたが、1917年に上湧別村白瀧に開かれた第二農場の責任者となって、未開地の開墾に本格的に取り組みます。1918年7月の『人道』には、次のように書かれています。

白瀧にては高野一司君及令閨事務所にて青年三人を相手に自作開墾及小作人の指導監督に任ぜられ居り候。白瀧は昨年秋迄九戸の小作人入地せしのみなりに今春は総計三十戸となりて盛んに開墾に従ひ居り候。この様子なれば来春は予定の五十五戸入地致すべきかと相楽しみ居候。

 厳しい自然環境の中での開墾作業は、並大抵ではなかったと思いますが、高野は順調に仕事を進めていったようです。
 ちなみに、上記事で「令閨」と記されているのは、右の『内務省主催感化救済事業地方講習会講演録』(1917)の2行目に出ている、「助手高野まつの子」さんでしょう。職員の名前を見ると、高野のみならず、鈴木、大谷、品川各氏も、同姓の男女ペアができており、「生徒たちは職員夫婦とともに一つ屋根の下で生活する」という、家庭学校の理念が体現されています。

4.山形県自治講習所教師

 このようにして28歳から34歳まで、北海道で感化教育・開墾に従事した高野一司ですが、1921年(大正10年)にまた転職します。
20231008d.jpg 『職員録 大正10年』には、山形県の「自治講習所 教師高野一司」として名前が現れるのです(右画像)。

 この「自治講習所」とは、山形県の地方課長だった藤井武が、デンマークの国民高等学校フォルケホイスコーレを紹介する『国民高等学校と農民文明』(那須皓 訳)を読んで、農村における人材育成のためには、日本でも同様の成人教育を行う必要があると考え、御大典記念事業として知事に献策したものでした。藤井の構想は実現することになり、開設にあたって所長として迎えられたのは、以前に「「弥栄主義」をめぐる葛藤」という記事でご紹介した、加藤完治でした。
 この新たなプロジェクトの担い手として、どのような経緯で高野一司が引き抜かれたのかはわかりませんが、加藤完治は東京帝大農学部の人脈を通して白羽の矢が立ったということですから(宇野豪「近代日本における国民高等学校運動の系譜(四)Ⅳ 加藤完治(上)」)、高野一司にも帝大出身者を介した誘いがあったのかもしれません。この時点までに、高野の北海道での働きが、大学関係者に知られるようになっていた可能性があります。

 「山形県自治講習所」は、農業人材育成のために後に全国に広がる「国民高等学校」運動の、嚆矢ともなる施設でした。右上の画像を見ていただいたらわかるとおり、この講習所において指導的な役割にあるのは、加藤完治と高野一司の二人だけで、加藤が不在時には高野が実質的に責任者として、教育や農業実践にあたったわけです。
 実際、加藤は一時デンマーク等に留学しますが、その間のことについて『斯民』1922年10月号には、次のように説明されています。

□加藤所長渡欧不在中は、もと家庭学校の北海道道場の主任をして居られた高野一司氏が所長代理として留守を預ることになつて居る。

 ただ、北海道時代に家庭学校の校長だった留岡幸助は熱心なクリスチャンで、学校や農場はキリスト教精神に則って運営がなされていたのに対し、山形の「自治講習所」は、加藤完治が信奉していた皇国主義・弥栄主義をモットーとしていました。この農民道場の根本思想は、「大和民族の理想信仰」であり、その目標は「天照大御神の御延長に在す 天皇を中心として国民全体が本来の一心同体を体し、各自其分担せる業務を完全に果しつゝ世界文明の建設に努力する事」とされていたのです。
 高野も当初は戸惑ったかもしれませんが、その後の岩手国民高等学校で「日本体操やまとばたらき」などの活動を高野が率先して行っていたことからすると、山形でその精神をしっかり身に付けたのでしょう。
 実際、1924年に刊行された筧克彦著『かみあそびやまとばたらき』p.466には、「山形県自治講習所 高野 一司」として、次の短歌を寄稿しています。

山形県自治講習所 高野一司

日毎日毎いやあらたしく天降あもる身を手伸たのしみてなりにはげまむ

 「手伸たのしむ(=楽しむ)」というのは、筧克彦が「やまとばたらき」で用いている独特の語法であり、高野がそのような神道的な思想を、己れのものとしていたことが読みとれます。

5.岩手県社会教育主事

20231008e.jpg さて、このようにして農業実践や青少年教育を体得した高野一司が、岩手県にやってきたのは1925年(大正14年)7月で、37歳になったところでした。「学務部学務課勤務」の「社会教育主事」という肩書きで、おそらくこの年度の終わりには「岩手国民高等学校」を開講する方針が決まった上での、その実務担当者としての引き抜きだったと思われます。高野の「教育」面での能力が、買われたわけです。

 前述のように、岩手国民高等学校は1926年1月~3月に開かれましたが、賢治との出会いはこの時が初めてだったはずです。生徒たちの目に、この二人が「はじめから仲がよく」見えたというからには、何かお互いの間に引かれるものがあったに違いありません。大勢の教師が他にもいる中で、「(高野の)留守の時は賢治が代理をした」というのも、高野が指名したのか賢治が名乗り出たのかはわかりませんが、いずれにせよ二人の緊密な関係をうかがわせます。
 宮澤賢治はある意味で「異能の人」と言えるでしょうが、高野一司も東京帝大出の資質の上に、ここまで厳しい現場での実践活動を積み重ねてきたことで、相当の人物になっていたはずです。そのような二人は、どこかでお互いの力を認め合うところがあったのかもしれません。

 しかし、そういう風に相互にリスペクトを持っていたであろう二人が、生徒たちが驚くほど烈しい雪合戦や組み打ちをやったとか、賢治の方では「偽善的ナル主事」と書き残していたということは、いったいどのように理解したらよいのでしょうか。
 その雪合戦の様子について、関登久也が平来作から聞いたという話を、あらためて直接引用しておきます。

 もう一つその学校の開設中の思い出があります。そのとき舎監をしていた高野先生と宮沢先生が農学校の門のところで、雪投げをしておられました。それは雪投げというよりは、激しい合戦のごときもので、お互いが夢中になって雪を掛け合うというありさまでした。私は奇異の感に打たれて、しばらく遠くから眺めておりました。その合戦がいよいよ激しくなり、ついには組み打ちとなって二人は雪の上に、ころげまわっておりました。あまりどちらも真剣なので、あるいは喧嘩ではないかと思いましたが、しばらくしてから二人は頭からぼやぼや湯気を上げ、洋服の雪を払いながら、顔を見合わせて笑っているのを見て私も安心しました。長い間の先生の生活に、ああしたことは実にはじめてであります。先生の無心というか、むじゃ気というか、先生のうちにあるものが、ときにああした愉快な行動に出られたものだろうと今になつかしく思い出されます。(関登久也『賢治随聞』p.183)

 『新校本全集』年譜篇の注には、この一連の騒動について「あるいはそこで公憤があらわれたと見られなくもない」とあり、賢治が高野のことを「偽善的」な人間と見ていた負の感情が、雪合戦における攻撃性(公憤)として表れたと、捉えているようです。
 また、菊池忠二氏は、雪合戦と二人の関係について、次のように書いています。

 この時の二人の争いがまったく偶発的なもので、果たして本気であったのか、単なるたわむれであったのか、この回想だけでは判然としない。
 いずれにせよ両者の精神主義的な気質と、農村問題解決への燃えるような念願とは、共通点としてこの時期の二人を結びつけていたとしても、偽善的とみられる行為を、宮沢賢治に見破られていたのでは、両者の交流も長続きするはずがなかった。(菊池忠二『私の賢治散歩』上巻p.275)

 これも全集年譜と同じく、賢治は高野のことを本気で「偽善的」な人間と見なして、否定的に評価していたという解釈です。
 しかし二人の交流は、実際にはこの後「長続きするはずがなかった」のではなくて、後述するように以後も相互に関わりは続いていたのです。
 そういう経過からしても、賢治は高野一司のことを否定的に見ていたどころか、逆に強い親しみを感じていたのではないかと、私は思うのです。

 賢治の対人関係における独特のスタンスについては、私も以前から興味を覚える部分があり、その一つの傾向を「〈みちづれ〉希求」という言葉で表してみたりしていましたが、賢治という人は、自分が親しみを感じる相手に対しては、異様なほど近い対人距離で、感情を顕わにすることがあったようなのです。
 同僚教師の堀籠文之進に、「自分と一緒に信仰の道を歩んでくれないか」と言って、無理だと断られると、「どうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」と言い、堀籠の背中を打ったというエピソード(『新校本全集』年譜篇p.254)もそうですし、やはり親友の藤原嘉藤治に対しても、かなり好き勝手なことを言ってしょっちゅう怒らせ、百回も絶交されていたという話もあります(関登久也『新装版 宮沢賢治物語』p.270)。これらは、世の中の一般的な賢治のイメージとは、異なる側面です。

 ですから、高野一司が知事の前で裸足になるのを見た賢治は、何か偽善的な違和感を覚え、そういう自分の気持ちは率直に記しているのでしょうが、それはあくまでその一つの行為に対する印象に過ぎず、何も高野の人格そのものを否定するようなものではなかったように思うのです。そして実のところは、賢治は高野に対する尊敬の念をその後も持ち続け、それが次に述べるような訪問にもつながったのではないかと考えます。

6.宮城県広淵沼開墾地管理所長

20231008f.jpg 賢治たちとともに盛り上がった岩手国民高等学校が終了すると、高野一司はそれから1年も経たない1927年(昭和2年)2月に岩手県を辞し、宮城県の広淵沼開墾地管理所長となります。(右画像は『宮城年鑑 昭和5年版』より, 最終行に高野一司の名前)
 この広淵沼の開墾地については、大沢正善さんが『賢治研究』の148号から現在も、「広渕沼開墾地行のこと」として連載中で、私も毎号楽しみに拝読しているところです。

 宮城県石巻市の北側の旧北上川の流域では、昔から様々な治水事業が行われてきましたが、江戸期に灌漑用の貯水池として造成された広淵沼を、干拓して新たな農地にしようとする事業が、大正期後半から行われていました。干拓がだいたいできたところで、その新たな土地を農地として整備し作付けを行う「開墾」の責任者として、今度は宮城県の幹部が高野一司の能力に目を付けたのだと思われます。

 高野のこの広淵沼在任中に、賢治は東北砕石工場の技師として、石灰肥料の注文を取るために、はるばる現地を訪ねているのです。
 1931年5月5日付けの鈴木東蔵あて書簡337には、「私は只今より広淵沼開墾地に高野技師を訪ふべく御座候」とあり、翌日の鈴木東蔵あて書簡338では、次のように報告しています。

昨日宮城郡農会辞去后石巻より広淵沼開墾地を経て小牛田に出で各処注文を請ひ乍ら夜十時半帰花仕候 広淵の方は本年は一寸六ヶ敷様子に有之候へ共斎藤報恩会の方は或は数日中に回答有之哉と切に期待し居り候

20231008g.jpg また、「実用数学要綱」ノートには、「広淵沼開墾地行」と記された1ページがあり(右画像)、「24.5+8=32.5」「35.0+8=43.0」という何かの計算式も書かれています。広淵沼開墾地に行くにあたって、準備をしていたのでしょうか。
 訪問前の鈴木東蔵あて書簡に、「広淵沼開墾地に高野技師を訪ふべく」と、わざわざ相手の名前まで出して書いているところにも、何か賢治の意気込みを感じます。

 この時、久々に再会した賢治と高野一司の間で、どういうやりとりがあったのかはわかりませんが、残念ながら商談の方は「本年はちょっとむつかしい」とのことで、石灰肥料の注文は得られなかったようです。しかし、後述の 7 で引用する書簡473に、賢治が高野のことを「先年来の本石灰事業同情者に有之」と書いていることからすると、高野は賢治が技師として関わっているこの石灰事業につき、その意義を認めて共感してくれていたのだと思われます。高野が賢治にこの共感を示した機会としては、「先年来」とあるからには広淵沼訪問の際しか考えられず、この時二人の間では、お互いに心の通い合う話ができたのだと推測されます。

 あと、これはちょっと本筋からは外れますが、大本教の出口王仁三郎が東北地方を旅行した際の『東北日記』の1928年(昭和3年)10月15日の項に、高野一司と面会したという記載があります。(『東北日記 七之巻』)

こゝよりまた自動車にて田舎道を佳景山駅に辿りつけばまだ四十分間あり。駅前休憩所に入りて休憩中、宮城県広淵沼管理所々長の高野一司氏及び所員五名に面会し記念の絵短冊をわかちぬ。二時三十八分百名近くの信徒に見送られて佳景山駅発車東西十里南北五里の大崎壙土を左右にみはるかしつゝ旧広淵の堤を西へ西へとゆく。

田村麿由緒も深き篦岳の森かげ仰ぐ前谷地の駅

 出口王仁三郎が「駅前休憩所」で休憩中に高野らと面会したということは、高野の方から出口を「表敬訪問」したのかと思われます。県の役人である農業技師が、宗教者の個人的な旅行中に挨拶に行くべき職務的な必要性はないだろうと思われ、するとこの訪問は高野の個人的な発案ではないかと思うのですが、そうであれば若い頃から留岡幸助(キリスト教)や加藤完治(皇道主義)に親しんできた高野一司の、「宗教や精神生活に対する関心」というべきものが、背景にあったのではないかという気がします。
 そしてこのような精神性が、賢治との間の共通点にもなったのではないかと、個人的には推測しています。

7.岩崎開墾事業事務所長

 広淵沼干拓地の開墾が、1928年(昭和3年)に見事に完了すると、高野一司が次に向かったのは、岩手県和賀郡の岩崎地区でした。
 当時の岩手県知事は、皇道精神を鼓吹する切れ者の石黒英彦でしたが、知事がこの新たな地区の開墾を実施するにあたって招聘したのが、高野一司だったのです。
 『和賀町史』には、昭和初期までの岩崎地区の状況と、高野一司の任命について、次のように書かれています。

 岩崎農場というのは、昭和になって開拓が進められるようになってからの名まえである。その前は一面の曠野だったのである。もっとも藩政時代においても農場地域の中央部を開拓し、用水を夏油川から上水して農地にしようとしたこともある。しかし、夏油川の水量がもともと豊かでない上に、新田・岩崎・鬼柳地区でも、その水田に灌漑していたので、この開拓地への上水はさらに少なくなり、年月を経るにしたがって、岩崎・江釣子・藤根の草刈場となり終った。
 明治・大正・昭和と日本の近代化が進むにしたがって農業も進歩してきた。しだいに化学肥料の利用が増加するにつれて、堆肥用の草刈りの需要も下火になった。岩崎農場地区は今やまったくの荒野同様になった。
 このような中で昭和二年ごろ、岩崎の八重樫哲夫氏らが中心となり、農家の二三男対策の一環として約五百町歩の開拓が計画された。計画は当時の得能佳吉知事に建議され、その重要性の確認を得るにいたった。昭和六年、石黒英彦知事にいたり、本格的に取りあげられ、翌七年十一月県会に提案され、満場一致で可決された。このことについての八重樫哲夫氏と、和賀選出の県議高橋栄次郎氏の献身的な努力は、まことに大なるものがあった。
 岩崎農場に至る岩崎側からの道路は、道ともいわれぬ険しいものであった。そこで石黒知事は、六原から立石にまわられ、しばしば実地を検分しながら激励した。同時にこの事業の容易ならざるを察し、農場長として、新潟県高田市出身の高野一司氏を任命した。高野氏は、東京駒場大学実科卒業の英才で、各地で活躍されていた人であった。(『和賀町史』pp.690-691)

 このように、難事業のために知事から直々に指名されるというのは、当時すでに高野が「開墾請負人」として、その名を知られていたことの表れでしょう。

 現在は「岩崎新田」と呼ばれているこの開墾地は、下のような地域でした。(阿部和夫「岩手県六原扇状地北部の水利と農地開発」より)

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 和賀川と夏油川と奥羽山地に挟まれた三角形の地域で、夏油川が奥羽山地から北上盆地に顔を出して形成した扇状地の、北半分にあたります。
 このような扇状地では、地質がだいたい小石や礫でできており、水はけが良すぎて灌漑用水の確保が困難なのです。

 岩崎農場の開墾は、1933年(昭和8年)に始まりますが、この賢治最後の年の春に、事業を前にした高野は、花巻の賢治を訪ねているようなのです。
 1933年5月1日付けの賢治の鈴木東蔵あて書簡473に、次のようにあります。

拝啓 四月三十日附貴簡拝誦仕候
右岩崎開墾地に就ての照会は新任高野技師の考によるものに有之氏は曾ては本県にて国民高等学校を開設し、后宮城県広淵沼の開墾を完成し、今回再び本県にて六原道場と岩崎開墾地を経営せらるゝ次第、先年来の本石灰事業同情者に有之今回も来花の際面談致置候間、何卒充分の御誠意を以て御回答方願上候。岩崎開墾地は五百町歩に有之候へ共外に六原の三百町歩、この成績の良好なる限り県内各地数万町歩に同様の施設起るべくとの事に候。右様の事業は孰れも酸きも甘きも分り切ったる高野技師の管轄なれば宣伝様或は広告様の事は却って不可と存ぜられ候。〔後略〕

 この中ほどに記されている、「今回も来花の際面談致置候間」という文言からすると、高野一司は岩崎開墾地の所長となってから花巻の賢治宅を訪ね、二人で面談をしたのだと思われます。その後に記されている「岩崎開墾地は五百町歩に有之候へ共外に六原の三百町歩、この成績の良好なる限り県内各地数万町歩に同様の施設起るべくとの事に候」という内容は、その面談で高野が述べたことなのでしょう。
 つまり、賢治と高野一司が会ったのは、1926年の岩手国民高等学校、1931年の広淵沼開墾地に続いて、これが生涯で三度目ということになります。一度目は偶然に、二度目は賢治から、三度目は高野からの、会見でした。

 この時高野は、岩崎農場の開墾において、東北砕石工場の石灰肥料を購入するかもしれないのでよろしく、という依頼をしに来たのかもしれませんが、単純にビジネスだけの話ならば、わざわざ病人を自宅に訪ねなくても、工場の方に連絡するなり、いろいろ方法はあったはずです。
 高野としては、宮城県の仕事を首尾よく終えた後、国民高等学校で懐かしい花巻のすぐ南の地で仕事をすることになったので、久々に賢治に会いたいと思ったのではないでしょうか。そして顔を合わせると、お互いのその後の生活について、しばし語り合ったのではないかと思うのです。

 また、上記書簡の「右様の事業は孰れも酸きも甘きも分り切ったる高野技師の管轄なれば宣伝様或は広告様の事は却って不可と存ぜられ候」という言葉には、賢治の高野に対する深い尊敬の念が感じられますし、「何卒充分の御誠意を以て御回答方願上候」という鈴木に対する依頼には、単に大きな商談になるかもしれないから慎重にというだけでなく、高野一司という人物をどうか丁重に扱ってくれ、というような賢治の思いも感じてしまいます。

 この時の東北砕石工場との間の取引がどうなったのかはわかりませんが、その後の岩崎農場の開墾は、高野所長や入植者たちの奮闘にもかかわらず、幾多の困難に遭遇します。
 途中、石黒知事は1937年に北海道長官として転出し、陣頭指揮にあたってきた高野一司も、1940年に農場事務所が失火から全焼した責任を取って辞職してしまうのですが、これらはもう賢治没後の出来事です。

8.その後

 その後、高野一司は満洲に渡って、彼の地で開墾事業に従事したということです。皇国主義を奉じ、日本の農業の拡大発展を追求しようとすれば、当時の状況下では満洲に行き着いてしまうのは、必然的な道筋だったのでしょう。
 満洲で高野がどのような活動を行っていたのかは、今のところ手元ではわかりません。若き日に山形県自治講習所で、ともに開墾と教育に従事した加藤完治も、この頃には満洲にいたはずですが、現地で再会することはあったでしょうか。

 いずれにせよ、1945年の日本の敗戦によって、満洲の在留邦人は大変な苦労を強いられたでしょうが、高野は何とか生きて本国に引き揚げることはできたようです。
 そして、その後まもなく1948年10月23日に、亡くなったということです。

 一方、岩崎農場の開墾事業は、戦争を挟んで進められ、1948年8月1日、入植者全員が自作農として独立して、開墾事業は完了したということです。これは、高野が亡くなる直前のことですから、彼は開墾完了の報を、耳にすることができたかもしれません。

 そして1950年10月、岩崎農場の開墾完成を記念して、高野一司の彰徳碑が、農場管理事務所跡に建立されました。高野の遺族も招待されて、盛大に除幕式が行われたということです。
 心ならずもこの開墾地を離れることになり、完成を見ることもできなかった高野一司の思いを、遺族や入植者たちは、それぞれに噛みしめたことでしょう。

 去る9月23日に、私はこの高野一司の彰徳碑を見に行ってきました。JR北上駅からは、タクシーで20~30分ほどという所です。

 碑の場所は、上の地図の赤いピンのところで、「岩崎新田」と呼ばれる開墾地の中心部にあたり、周囲には広々とした畑が広がっています。

 私は『和賀町史』でこの碑の白黒写真を見て、ぜひ現地に行って見てみたいと思ったのですが、具体的な場所は記されていませんでした。
 そこで、Googleマップのストリートビューで、岩崎新田のあたりの道路をしらみつぶしに見ていったところ、そのうちに上の場所で、『和賀町史』の小さな写真とよく似たシルエットの石碑が見つかり、今回訪問することができた次第です。

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 碑の表面には、大きく「高野一司之碑」と刻まれ、上部には「生不朽」と記されています。

 英語の"cultivate"という単語は、「開墾する」という意味と、「教育する」という意味を、併せ持っていますが、高野一司という人は、大地と人をいずれも「耕す」ことに、一生を捧げた方だったのだと思います。