宮沢賢治学会イーハトーブセンター定期大会

 この9月22日~23日、花巻で宮沢賢治賞・イーハトーブ賞の贈呈式と、宮沢賢治学会イーハトーブセンターの定期大会が開かれましたので、参加してきました。

 今年の宮沢賢治賞は、法政大学教授の岡村民夫さん、宮沢賢治賞奨励賞は東北大学名誉教授の大内秀明さん、イーハトーブ賞は作曲家の中村節也さんとテノール歌手の福井敬さんです。
 大内さんは残念ながらご欠席でしたが、岡村さんと中村さんは、それぞれに示唆に溢れた魅力的な記念講演をして下さいました。そして福井さんは、表彰の後に賢治の「精神歌」と「種山ヶ原」を、さらに午後には「特別公演」として、「剣舞の歌」、「牧歌」、「星めぐりの歌」に続き、アンコールとしてプッチーニの「トゥーランドット」よりアリア「誰も寝てはならぬ」を歌って下さいました。その圧倒的な歌唱は、私にとっても忘れられないものとなりました。
 会場では録音等は控えましたので、当日の記録のかわりに、ここにはYouTubeから福井敬さんの「誰も寝てはならぬ」を貼っておきます。あの殺風景な「なはんプラザ」のホール一杯に、この輝かしい歌声が響きわたったのです。

 また、今年度の宮沢賢治学会イーハトーブセンター功労賞は、「栃木・宮沢賢治の会」と「米澤ポランの廣場」の二団体が受賞されました。どちらの団体も、1990年代から本当に長期間にわたって地道な活動を積み重ねてこられました。そして、皆さん心から賢治が好きで、楽しく集りを持ってこられたことが伝わってきます。

 受賞者の皆様には、心からお慶び申し上げます。

 23日の午前には別の予定を入れていたので、イーハトーブ館で開催された「宮沢賢治研究発表会」には出席できなかったのですが、午後から行われた「エクスカーション」に、30数名の皆さんとともに参加してきました。
 以前はいろいろ楽しめたこの種の企画も、コロナ禍のためしばらく中断していましたが、今回は実に久しぶりのものでした。いいお天気のもとで、賢治好きの皆さんと一緒に花巻を散策する時間は、本当に楽しいものでした。

 今回のエクスカーションは「賢治の通勤路」と題され、在りし日の賢治が自宅から「稗貫農学校」や、その後移転した「花巻農学校」に毎日通った道を、皆でたどりなおしてみようという試みです。
 下の画像は当日の配布資料で、赤線が今回のエクスカーションで歩いたコース、青線は当時からあった道路です。賢治の時代に走っていた花巻電鉄の廃線跡や公園の跡地などから、当時の様子を想像してみるのも楽しかったです。

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 現在は、賢治生家と農学校の間の道には、下写真のような「賢治さんも通いし道 旧「農学校通り」」という看板が建てられていて、いろいろな説明も付けられています。

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 この道は「農学校通り」と呼ばれた、登下校の生徒で賑わった通りでした。
 1923(大正12)年4月、この地に新設開校された花巻農学校の教諭として宮沢賢治もこの道を通って、3年間、熱心に生徒たちを指導しました。
 この学校の「宮沢先生」の時に、「心象スケッチ『春と修羅』」、「イーハトーブ童話『注文の多い料理店』」を刊行しました。農学校は、戦後、農業高等学校となり、1969(昭和44)年に宮野目葛へ移転するまで、この道は「農学校通り」と親しまれていました。

花西地区まちづくり協議会

 下の茶色いアパートは、賢治の時代には牛乳屋さんがあって牛を飼っていたのだそうで(上の地図の③)、「銀河鉄道の夜」でジョバンニがお母さんの牛乳を買いに行く場面のモチーフになったのかもしれません。

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 「農学校通り」をさらに東へ……。

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 通学路から少し南に折れて、初期短篇「ラジュウムの雁」に出てくる「天神さん」のあった西公園跡地(上地図の④の鳥居の印)に寄りました。

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 ここは町なかにありながら、上写真のような森閑とした雰囲気も漂っていて落ち着きます。ここを舞台とした「ラジュウムの雁」の文章もノスタルジックで素敵で、この一角はいつかまたゆっくりと訪ねてみたいと思いました。

 下の写真は、西公園跡の少し北で、南東側の眺望が開けた場所から、豊沢川の方向を眺めたところです。

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 ここで、右端に見えるアーチ型の鉄骨は、豊沢川に架かる「不動橋」ですが、そこから水平に視線を移動すると、左端の方に水色をした鉄橋が見えます。これはJR東北本線が豊沢川を渡る鉄橋で、夜にここから鉄橋の上を眺めていると、灯りのついた列車が宙に浮かんで走るように見えて、まるで「銀河鉄道」のようなのだそうです。

 そんな説明をいろいろお聞きして、西公園を後にすると、また引き返して「農学校通り」に戻ります。

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 下の切り通しのカーブした道は、昔は鉛温泉に行く電車が走っていた廃線跡です。

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 下の坂道は、「青森挽歌 三」で、トシの死の翌12月に学校帰りの賢治が吹雪の中を走って降りてきて、その直後にトシの面影を見た場所だろう、と……。胸が詰まります。

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あいつが死んだ次の十二月に
酵母のやうなこまかな雪
はげしいはげしい吹雪の中を
私は学校から坂を走って降りて来た。
まっ白になった柳沢洋服店のガラスの前
その藍いろの夕方の雪のけむりの中で
黒いマントの女の人に遭った。
帽巾に目はかくれ
白い顎ときれいな歯
私の方にちょっとわらったやうにさへ見えた。
( それはもちろん風と雪との屈折率の関係だ。)
私は危なく叫んだのだ。
(何だ、うな、死んだなんて
いゝ位のごと云って
今ごろ此処ら歩てるな。)

(「青森挽歌 三」)

 下写真で道の向かいの駐車場は、賢治の時代には「高喜楽器」という楽器屋さんで、賢治はここでいつもレコードを買っていたのだそうです(上の地図の⑤)。
 こういう風に、今は何の跡形もない場所でも、感慨深くしみじみ眺めることができるのが、ファンの心。

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 東北本線の電車が高架を通り過ぎます。

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 下写真は賢治の母の実家の「宮澤商店」で、「賢治産湯の井戸」があるところです(上の地図の⑥)。

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 豊沢町まで到着し、賢治生家(上地図の★)の前でしばし歓談。

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 ここからは、進路を北にとり、移転前の「稗貫農学校」の方面を目ざします。
 下の写真は、宮澤家が(花巻共立病院の佐藤隆房医師の前に)かかりつけ医だった医院跡。入口の戸は、当時のままだそうです。

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 下は「ひやっこ坂」と、左側の旧橋本家。現在ここは「茶寮かだん」というカフェになっています。

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 「茶寮かだん」(上の地図の⑧)の中にある、賢治が設計した花壇。

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 区画に使われている敷石用煉瓦が特徴です。

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 下写真は、岩手軽便鉄道「鳥谷ヶ崎駅」の旧駅舎ということです。

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 下は、総合花巻病院が移転して広々とした空き地になった、稗貫農学校跡地(上の地図の⑩)。

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 最後に、稗貫農学校の向かい側にあった旧花巻高等女学校跡(現在は「まなび学園」)の駐車場で、エクスカーション参加者の記念撮影を行いました。

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 お世話いただいた皆様、ありがとうございました。