よく知られているように、賢治は少なくとも1926年から1928年にかけて、労農党の熱心なシンパとして、その政治活動を様々な形で支援していました。
労農党(労働者農民党)は1926年3月5日に創立され、その稗和支部は同年10月31日に花巻町朝日座において結成されましたが、この時賢治は種々の便宜を図り、その後も党支部に毎月寄付を続けていたということです。
下記は、当時労農党盛岡支部執行委員だった小館長右衛門の談話です。
宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽したということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部を開設させて、その運営費を八重樫賢師を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった。おもてにでないだけであったが。(『新校本全集』第16巻(下)年譜篇p.322)
また下記は、稗和支部党員の川村尚三の談話です。
昭和二年の春頃『労農党の事務所がなくて困っている』と賢治に話したら、『俺がかりてくる』と言って宮沢町(現仲町)の長屋──三間に一間半ぐらい──をかりてくれた。そして桜から(羅須地人協会)机や椅子をもってきてかしてくれた。賢治はシンパだった。経費なども賢治がだしたと思う。ドイツ語の本を売った金だとも言っていた。(『新校本全集』第16巻(下)年譜篇p.323)
さらに作品においては、1927年3月26日の日付を持つ「〔黒つちからたつ〕」(詩ノート)には、次のような一節があります。
きみたちがみんな労農党になってから
それからほんとのおれの仕事がはじまるのだ
賢治がこれほどまでに労農党に肩入れをした理由を推測すると、まず一般論としては、この党が議席を増やして政府に対する影響力を持てば、全国の農民の暮らしがもう少し良くなるのではないかと期待したのかと思われますが、私としてはさらにもう一つ、賢治自身にも関わる、より具体的な願いもあったのではないかと思うのです。
※
その賢治の願いとは、彼が羅須地人協会の活動を始めて以降、様々な機会に直面して打ちのめされることになった、自分と農民たちの間の深い「溝」を、何とかして埋めることができないかということです。
労農党の存在やその思想が、地域の農民たちの間に浸透していけば、かつては町の俸給取りであった賢治と、村の農民たちの間にも、新たな連帯が可能になるのではないか、そして皆でともに苦楽を分かち合って、希望に向かって進むことができるのではないかと、賢治は心のどこかで期待をしていたのではないかと思うのです。
教師を辞めて農耕を始めた賢治と、村の農民たちの間に横たわっていたこの「溝」について、たとえば1927年4月21日の「〔同心町の夜あけがた〕」には、次のように書かれています。
町をさしてあるきながら
程吉はまた横眼でみる
わたくしのレアカーのなかの
青い雪菜が原因ならば
それは一種の嫉視であるが
乾いて軽く明日は消える
切りとってきた六本の
ヒアシンスの穂が原因ならば
それもなかばは嫉視であって
わたくしはそれを作らなければそれで済む
どんな奇怪な考が
わたくしにあるかをはかりかねて
さういふふうに見るならば
それは懼れて見るといふ
わたくしはもっと明らかに物を云ひ
あたり前にしばらく行動すれば
間もなくそれは消えるであらう
われわれ学校を出て来たもの
われわれ町に育ったもの
われわれ月給をとったことのあるもの
それ全体への疑ひや
漠然とした反感ならば
容易にこれは抜き得ない
自分が農民たちから不審の目で見られる原因について、いろいろ推測をしていますが、賢治自身の実感は最後の6行に記されているように、彼らが自分に向ける感情は根が深く、「学校を出て来たもの」「町に育ったもの」「月給をとったことのあるもの」全体に対する「疑ひや漠然とした反感」であり、「容易に抜き得ない」ものだと考えていたのでしょう。
あるいは、1927年3月16日の「〔土も掘るだらう〕」の全文は、下記です。
土も堀るだらう
ときどきは食はないこともあるだらう
それだからといって
やっぱりおまへらはおまへらだし
われわれはわれわれだと
……山は吹雪のうす明り……
なんべんもきき
いまもきゝ
やがてはまったくその通り
まったくさうしかできないと
……林は淡い吹雪のコロナ……
あらゆる失意や病気の底で
わたくしもまたうなづくことだ
たとえ賢治が毎日農耕作業にいそしみ、食べるに困るほど貧窮していたとしても、それでも決して本当の農民になることはできず、どこまで行っても「おまへらはおまへらだし/われわれはわれわれだ」という厳然とした区別が、存在するというのです。賢治は農民から何べんもそう言われ続け、結局は「うなづく」しかなかったのです。
当時の農家の人々にとって、町で給料を稼ぐ者と、自分たちとの間の断絶は、それほどまでに深刻なものだったのでしょうか。
しかし、ちょうどこの大正末から昭和の初めの世相の中で、農民と労働者の間の団結を呼びかける運動が、あるとき颯爽と登場したのです。
※
1925年3月に国会で普通選挙法が成立し、これによって25歳以上の全ての男性が納税額に関係なく選挙権を持つことになったため、貧しい無産階級を代表する政党でも、国会で議席を獲得できる可能性が、現実味を帯びてきました。
この機に当たって、無産者の力を一つに結集して普通選挙に臨むため、「単一無産政党」の設立が急務とされていましたが、1925年6月、賀川豊彦や杉山元治郎により組織された「日本農民組合」が、労働団体31団体に対して「無産政党組織の提議」を行います。同年8月から、農民組合や労働組合の代表者によって「無産政党組織準備委員会」が重ねられ、ついに12月1日に浅沼稲次郎を委員長とする「農民労働党」が設立されるに至ります。
しかしこの党は、結党から30分後に幹部が警視庁に招致され、治安警察法違反を理由に禁止されてしまいました。「党結成は名を政党にかり、実は我国体と相容れない共産主義の実行を企図するものである」という理由が通告されたということです。
このような政府の弾圧にも挫けず、再び日本農民組合と官業労働総同盟が呼びかける形で、農民組合と労働組合の間では、1926年1月からもう一度「無産政党準備懇談会」が重ねられます。前回の教訓から、共産主義的色彩をできるだけ払拭するよう注意しつつ、ようやく3月5日に、日本農民組合の杉山元治郎を中央執行委員長として、「労働農民党(労農党)」が結成されました。
以上の経過を見ても、労農党が設立されるまでの経緯において、農民組合が果たした役割がいかに大きかったかということがわかるかと思います。社会主義的な運動というと、通常は都市労働者の動きが主体と思われがちですが、日本における無産政党の揺籃期は、農民運動を抜きにして語ることはできなかったのです。(以上の記述では、麻生久著『無産政党とは何ぞ : 誕生せる労働農民党』(1926, 右写真)を参照しました。)
※
さて、賢治の状況に戻ります。このようにして誕生した労農党を支持するにあたって、はたして賢治は自らのアイデンティティをどこに置いていたのでしょうか。
彼は1926年3月で教師を辞めて農耕生活者になったわけですから、以後は労農党に関わる上でも、彼の立場は「一人の農民」だったはずです。しかしここで前述のように、実際に彼の周囲の農民からは、同じ農民仲間として認めてもらえないという現実にも直面していました。
このようなジレンマを抱えていた賢治は、自らのアイデンティティにおいて、ある種の二重性を帯びざるをえなかったのではないかと思うのです。
そのような事情は、「春と修羅 第二集」の「序」として賢治が書いた文にも潜んでいるように、私には思われます。
賢治がこの「序」を書いたのは、『ちくま文庫版 宮沢賢治全集』第1巻の入沢康夫さんによる解説によれば、「(1928年の)四月中旬から六月はじめまでの間である可能性が最も大きい」ということですが、それは次のように始まります。
序
この一巻は
わたくしが岩手県花巻の
農学校につとめて居りました四年のうちの
終りの二年の手記から集めたものでございます
この四ヶ年はわたくしにとって
じつに愉快な明るいものでありました
先輩たち無意識なサラリーマンスユニオンが
近代文明の勃興以来
或ひは多少ペテンもあったではありませうが
とにかく巨きな効果を示し
絶えざる努力と結束で
獲得しましたその結果
わたくしは毎日わづか二時間乃至四時間のあかるい授業と
二時間ぐらゐの軽い実習をもって
わたくしにとっては相当の量の俸給を保証されて居りまして
近距離の汽車にも自由に乗れ
ゴム靴や荒い縞のシャツなども可成に自由に撰択し
すきな子供らにはごちさうもやれる
さういふ安固な待遇を得て居りました
〔後略〕
この文は、『春と修羅』〔第一集〕の「序」が新たな世界観をも開示しようとする気概に満ちたものだったのと対照的に、軽妙な諧謔味も帯びてユーモラスですが、ここで賢治がまず言っているのは、教師時代の自らの労働環境は、先輩たち「サラリーマンスユニオン」の努力のお陰によって、「安固な待遇」に浴していたということです。
しかし、この部分の理屈に疑問があることは、以前に「「春と修羅 第二集」の「序」と労農党」という記事にも書きました。あらためて要約すると、当時の教員の団体としては、1919年に結成された「日本教員組合啓明会」という組織があったものの、この団体の目的は、教育理想の民衆化、教育の機会均等など、教育内容の改革を目ざすものであって、教師自身の待遇改善を求める運動は行っていなかったのです。それに何より、賢治自身は県立学校に勤める地方公務員(待遇官吏)でしたから、労働組合に所属する権利も、団結して雇用者に何かを要求する権利も、戦前には認められていなかったのです。
すなわち、教師としての賢治の待遇が、「サラリーマンスユニオン」の「絶えざる努力と結束で/獲得しましたその結果」であったというのは、全く事実に反するのです。それにもかかわらず、そんなことはよく知っているはずの賢治が、なぜここに「サラリーマンスユニオン」などを持ち出してきたのでしょうか。
その理由として私が思うのは、ここで賢治は、かつて教師だった自分自身が、「俸給労働者」の一翼に連なる身であったということを、ことさら強調しておきたかったのではないかということです。
ひとたび町の勤め人だった者は、後に農業に従事したとしても、元からの農民にはなかなか同じ仲間と認めてもらえないのかもしれません。あのイソップ寓話において、獣からも鳥からも仲間はずれにされた「卑怯なコウモリ」のように、どちらの陣営にも確固としたアイデンティティを置かせてもらえないかのようです。
しかし労農党という組織においては、町の労働者と村の農民が、対等に連帯してお互いの暮らしを良くするために、運動をしようとしているのです。
これこそが、農村に入った賢治が直面した「溝」を、乗り越えて進む力を孕む組織だと、少なくともある時期の賢治は期待したのではないでしょうか。
「きみたちがみんな労農党になってから/それからほんとのおれの仕事がはじまる」との言葉における「きみたち」とは、賢治の周囲の農民たちのことでしょう。労農党が、賢治と農民たちとを繋ぐ確かな絆となった時、羅須地人協会では成し得なかった「ほんとのおれの仕事」がやっと可能になるのだと、賢治は未来への希望を込めて、この党を支援していたのではないかと思うのです。
第1回普通選挙の投票日も近い1928年2月初旬、賢治の労農党稗和支部に対する支援について、党員の煤孫利吉は次のように語っています。
二月初め頃だったと思うが、労農党稗和支部の長屋の事務所は混雑していた。バケツにしようふ(のり)を入れてハケをを持って「泉国三郎」と新聞紙に大書したビラを街にはりに歩いたものだった、事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった、『宮沢賢治さんが、これをタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったものだ、と聞いた。(『新校本全集』第16巻(下)年譜篇p.366)
かつて羅須地人協会の活動において、集会案内や講義資料を印刷するのに使った大切な謄写版の道具一式を、ここで賢治は手放してしまって、労農党の選挙運動に託すのです。彼が農民と一緒にやろうとしていた活動が、その方向性を大きく転換したことを象徴するような寄付だったと言えるでしょう。
※
1928年2月20日に投票が行われた日本初の普通選挙では、政府や既成政党による無産政党への弾圧や選挙妨害は、熾烈を極めたということですが、賢治が支援した労農党の泉国三郎は、その健闘にもかかわらず、惜しくも落選してしまいます。しかし、全国では労農党から2名が当選し、無産政党全体では15名が国会議員となって、政府には相当の衝撃を与えました。
危機感を抱いた政府は、「三・一五事件」で共産党関係者を大量検挙したのに続き、4月10日に労農党にも結社禁止処分を下し、解散させてしまうのです。
この解散処分を受けて、労農党書記長だった細迫兼光は、「当局が百度解散すれば我々は百度結党するまでだ。斃れるまでやる」と、新聞記者に述べたということです。(大山郁夫『嵐に立つ : 日本に於ける無産階級政治鬪爭の一記録』1929, 鐵塔書院)
さて、上に引用した賢治の「春と修羅 第二集」の「序」は、前記「サラリーマンスユニオン」の話に続き、友人たちの勧めでまたこの一巻を出すけれども、出版社はまた損をするだろう、誰も同人になど誘ってくれるな、などという自嘲があって、最後は次のように結ばれます。
けだしわたくしはいかにもけちなものではありますが
自分の畑も耕せば
冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして
おれたちは大いにやらう約束しようなどいふことよりは
も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから
さう申したとて別に何でもありませぬ
北上川が一ぺん汎濫しますると
百万疋の鼠が死ぬのでございますが
その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云ひ方を
生きてるうちは毎日いたして居りまするのでございます
このようにして「序」は終わるのですが、ここで賢治が最後に持ち出す、「北上川が一ぺん汎濫しますると/百万疋の鼠が死ぬ」という話は、いったい何のことを言っているのでしょうか。
この「鼠」は、それまでの話の流れからすると、かなり唐突に出てくる印象なのですが、賢治が自らをその鼠のうちの一匹に喩えているのは確かでしょう。そして、自分も含めた鼠たちは、北上川の氾濫によって一挙に百万もが死んでしまうような苛酷な境遇にあるということを、言おうとしているのかと思われます。
ただしかし、この「序」全体を貫く、どこかニヒルで斜に構えたような調子にもかかわらず、最後の部分から私たちが強く感じるのは、この鼠たちが持つ「数の力」と、不屈の生命力です。鼠が一度の氾濫で百万疋死んだとしても、それは絶滅するどころか、また何事もなかったかのように、「ねずみ算」で増えて勢いを盛り返していくことでしょう。
そしてそれは、無産階級の政治運動が、どんなに厳しい弾圧を受け、獄中で殺される者があったとしても、決して根絶やしにされることはなく、必ずやそれに続く者によって受け継がれていくのだということを、言わんとしているのではないでしょうか。
前述のように、賢治がこの「序」を書いたのは、1928年の4月中旬から6月初め頃と推測されています。したがって賢治はこの時、自分たちが支援した岩手2区の泉国三郎候補が落選したことも、4月10日に労農党が強制的に解散させられたことも、すでに知っていたはずです。
その解散にあたって、労農党書記長が「当局が百度解散すれば我々は百度結党するまでだ。斃れるまでやる」と述べた言葉を、賢治は「百万疋の鼠」が死んでも……という表現に込めたのではないかと、私には思えてならないのです。
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