チャグチャグ馬コの今昔

 賢治が盛岡高等農林学校3年の大正6年に詠んだ短歌に、「ちゃんがちゃんがうまこ四首」と題された連作があります。

夜明げには
まだ間あるのに
下のはし
ちやんがちゃがうまこ見さ出はたひと。

ほんのぴゃこ
夜明げがゞった雲のいろ
ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て來る。

いしょけめに
ちゃがちゃがうまこはせでげば
夜明げの為が
泣くだぁぃよな氣もす。

下のはし
ちゃがちゃがうまこ見さ出はた
みんなのながさ
おどともまざり。

 方言を巧みに生かし、素朴さとともに哀調も漂う印象的な歌です。

 また、賢治が当時下宿していて、この「チャグチャグ馬コ」を見た「下ノ橋」のたもとには、連作短歌を刻んだ歌碑も建立されています。

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20230730a.jpg ところで昨日、当サイトの上記歌碑を紹介するページをご覧いただいた方からお手紙をいただき、そのページで私が説明していたチャグチャグ馬コの内容が、賢治が大正時代に見たであろう様子とは、かなり異なっているというご指摘をいただきました。そして、この行事の歴史を詳しく記した、右写真のような『チャグチャグ馬コ』というパンフレット(盛岡市・盛岡観光協会・チャグチャグ馬コ保存会・チャグチャグ馬コ振興協賛会発行)を、同封して送って下さったのです。
 そこで、このパンフレットを読ませていただいたり、手元でもいろいろ調べたりしてみたのですが、たしかにあらためてよく考えてみると、上の賢治の短歌の内容には、現在のチャグチャグ馬コの経路・時刻・馬の様子とは、合わない部分がいくつもあるのに気づかされます。

 たとえば、今年2023年6月10日に行われたチャグチャグ馬コの行列の経路と通過時刻は、下のチラシのようになっています。(画像は滝沢市のサイトより、クリックすると拡大表示されます)

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 チラシに赤線で示されているように、現在のチャグチャグ馬コの行列は、左上隅の滝沢市の鬼越蒼前神社を出発し、右下隅の盛岡八幡宮まで、行進することになっています。
 そしてチラシによると、鬼越蒼前神社の出発時刻は午前9時30分で、短歌に詠まれたような盛岡市中心部にやって来るのは12時から13時すぎになり、賢治の短歌で「夜明け前」の情景が詠まれていることとは、時間的に大きな相違があります。

 また、賢治が短歌に詠んだ舞台である「下の橋」は、チラシの中ほど下端でJRの線路が下に抜ける少し右にありますが、チャグチャグ馬コの経路を示す赤い線は、この橋を通っていません。そもそも、盛岡市の北西の鬼越蒼前神社から、岩手公園の東方にある盛岡八幡宮に向かうのならば、岩手公園のすぐ東の「中の橋」を渡るのが当然の経路であり、そうすれば岩手銀行赤レンガ館など、繁華な観光名所の前も通ることができます。この行程で「下の橋」を通るというのは、どう考えても不自然です。

 さらに、賢治の短歌では「いしょけめに/ちゃがちゃがうまこはせでげば」と歌われ、馬は「一生懸命に馳せていく」ということですが、現在のチャグチャグ馬コのパレードは、かなり密な隊列を組んで、14kmを5時間あまりかけて進むという、人間の徒歩よりも遅い優雅な道行きであり、途中で「馬が馳せる」などということはありえません。

 いったいなぜ、上のような相違が生じているのかということが問題ですが、実はチャグチャグ馬コの経路と趣旨は、1930年(昭和5年)を境に大きく変化しており、賢治たちが見た大正時代には、この行事は今とはかなり異なった形で行われていたのです。

 上記パンフレット『チャグチャグ馬コ』によれば、岩手県地方は奈良時代から馬の名産地で、源平合戦で活躍した「薄墨」(一ノ谷の崖から平家の陣に駆け下った源義経の馬)や、「生唼いけづき」(宇治川の先陣争いで真っ先に川を渡り切った佐々木高綱の馬)も、岩手産の馬だったということです。その後、この地を治めた南部氏も馬の飼育を重視し、参勤交代の行列では最後尾で荷物を運ぶ「小荷駄馬」を特例で100頭も付けることが幕府から許され、華やかな装束で大名行列を賑わしました。
 軍馬の需要が減少した近世中期以降は、馬は農耕用として農家と深いつながりを持つようになり、人と馬が一つ屋根の下で暮らす「南部曲り家」の作りは、この地の農民の愛馬精神を象徴しています。

 そしていつしか、端午の節句には農家が馬を連れて、馬の守り神である蒼前神社に参詣するという風習が、生まれたということです。時代とともに、徐々に馬具に趣向を凝らす飼い主が現れたり、江戸中期以降になると一部の農家は、南部家から拝領した豪華な「小荷駄装束」を馬に付けたりして、賑やかに参拝するようになったということです。
 「端午の節句」とは、元来はうまの月=五月の、最初(=端)の午の日という意味でしたが、そのうちに中国語では(日本語でもですが)、「午」と「五」が同じ発音であることから、「五月の五日」に固定されたということです。いずれにせよ、この日はまさしく「馬の日」であり、またちょうどこの頃は、農業歳時記的には田打ち・代かきという馬にとっての重労働が終わる時期で、人馬ともにしばしの休息をとって労をねぎらうという意味合いもあったようです。農家の人々は、着飾らせた馬を連れ、家族で蒼前神社の縁日に赴いて、祭を楽しんだのです。

 これが、元来の「チャグチャグ馬コ」という行事であり、盛岡周辺の農家で暮らす馬と人は、端午の節句の朝に三々五々それぞれの家を発ち、滝沢の鬼越蒼前神社に参拝して、また各自の家に帰るというのが、本来のルートでした。
 馬を飼っていた農家は、都南や三本柳など盛岡の南に広がる平野部の農村に多かったので、南方から盛岡の町に入った馬たちは、中津川に架かる下ノ橋を渡ることが多かったのです。そのためこの橋は、江戸時代からチャグチャグ馬コ見物の名所になっていて、人馬への「投げ銭」も行われていたということです。

 さらにまた、当時は「朝早く蒼前神社に参詣した方が、ご利益が大きい」と信じられていたということで、森口多里著『民族と芸術』(1942)には、次のように書かれています。

 島田鳴輪は盛岡の「チャグチャグ馬コ」即ち五月節句に市外の駒形神社に馬を参詣させる祭礼のときに、または馬の台覧の際等の馬につけるもので、鉄の紐に同じく鉄の輪が沢山ついてゐて、互に相触れて反響する。いかにも「チャグチャグ」の名にふさはしい音を発し、現時の製作ではこんなよい音は出ないさうである。チャグチャグ馬コの日には誰よりも早く参拝するのが効験があると信ぜられ、朝早く馬をひいて競争気分で神社に急ぐ。従つて鳴輪も急速の調子で五月の朝空に鳴り響く。そのあとで馬に慰労休暇を与へるさうである。(pp.76-77, 強調は引用者)

 ということで、賢治と清六が大正6年に、夜明け前の下ノ橋においてチャグチャグ馬コを見たこと、そしてそこにはまるで競争でもするように「一生懸命に馳せる馬」がいたということが、これで十分理解できます。

 このように、「人馬がそれぞれのペースで蒼前神社に参詣し、各自また家に帰る」という行事だったチャグチャグ馬コが、現在のような形へと大きく転換したのは、1930年(昭和5年)のことでした。
 この年、馬好きで知られた秩父宮が、盛岡の騎兵第二十三連隊に赴任したことを記念して、チャグチャグ馬コで着飾って鬼越蒼前神社に集結した馬たちを、盛岡八幡宮まで行進させて、神前馬場で馬揃えを披露したところ、大変な評判となったということです。このため、翌年以降のチャグチャグ馬コでも、馬たちは蒼前神社からさらに盛岡八幡宮まで行列をすることが恒例になって、現在に至っているのです。

 それでも、まだ最初のうちは、各農家から蒼前神社に参詣する道中こそが「チャグチャグ馬コ」であるという認識は強かったようで、たとえば1932年(昭和7年)刊行の『郷土童話』(近藤潔著)という童話集には、農家の与作という子供が「チャグチャグ馬コ」に乗る、次のようなお話があります。

 時は旧暦の五月五日、うす暗い霧のこめた夜明けの静けさ勇ましい美しい古風のチャグチャグ馬コは木戸から脚を運んだ。
 草原の露を踏みしめながらチャグチャグ勇ましくあたりに響いて来た。
「今日はこれァよいお天気だなあ。」と与作さんのお父さんが話しかけた。
「お父さん、あら向ふの通りに見物の人がもう来てる、後からもチャグチャグ馬コ来たよ。」
 馬上の二人は見物の人垣の真中を通り抜け、下の橋、夕顔瀬橋を渡り、あの岩手山の麓、鬼越の駒形神社を目指して、朝風に嘶く勇ましいお馬の手綱をとって急ぎました。
 松並木街道を通る頃は、先にも後にもお蒼前詣りの、即ち駒形神社参詣のお馬が勢よくかけて行く。この駒形神社は坂上田村麻呂の愛馬を祭った所であるといひます。
 馬を可愛がる南部の人はこのお宮にお詣りするのが年中行事です。
 与作さん達はこちらから持つて行つた絵馬を神様に奉納してお馬の繁昌を祈り、お馬を扱ふ人の幸福を祈願しました。
 チャグチャグ馬コは私共の里になくてはならないよい風習であると思ひます。(pp.73-74)

 与作たちの馬は、賢治の短歌と同じく夜明けに発って下の橋を渡り、そして神社に参詣した場面で「チャグチャグ馬コ」のお話終わるのです。
 また戦後になっても、1946年(昭和21年)に刊行された『蜜蜂の土産(こども風土記 ; 春)』(平野直著)という本には、次のように記されています。

 ちやぐちやぐ馬コといふのは、今に旧南部領の土地につたはつてゐる古い古い馬をまつるまつりなのでした。きれいにきかざっつたお稚児が、鈴をいつぱいつけた化粧馬にのつて、牧場から里、里から町の蒼前さま(馬をまつる神さま)へ練つて行く行事なのです。何十頭とつゞく馬の鈴が、ちやぐちやぐと空にも野にも町にも鳴り渡り、色とりどりなお稚児が馬で通るさまは、古い古いむかしの絵巻ものを見るやうでした。(pp.73-74)

 やはりこちらでも、チャグチャグ馬コとは、「牧場から里、里から町の蒼前さまへ練つて行く行事」だと説明されているのです。

 ところが現代では、先に掲げたチラシのように、元来の行程に後から付け加えて秩父宮に披露した、特別行事の部分(蒼前神社→盛岡八幡宮)だけを称して、「チャグチャグ馬コ」と呼ぶようになっているのです。「馬の参詣」という本来の宗教的行事よりも、参詣後に一般の人々に見てもらう「パレード」の方が、前景に立てられたというわけです。
 ことほど左様に、元来は神事である「祭」が、このように観光的変容を遂げるというのは、たとえば八坂の祇園社という洛外に鎮座する神様に、一時的に洛中に渡御していただくというのが祇園祭の趣旨でありながら、いつしか山鉾の巡行する部分ばかりに脚光が当たるようになったのと同じで、これが世の常なのでしょう。

 ということで、今回の貴重なご教示を賜りましたMさんには、心から御礼を申し上げます。
 「ちゃんがちゃんがうまこ連作」歌碑のページも、今回の知見にもとづいて修正を行いました。

 最後にここで、千原英喜さんが賢治の連作短歌「ちゃんがちゃんがうまこ」に作曲した美しい合唱曲を、どうかお聴き下さい。
 ピアノ伴奏にも、鈴の音を模した印象的な音型が何度も登場しますが、曲の最後には、一つだけ実際の鈴の音を入れてみました。

千原英喜作曲:児童・女声合唱曲「ちゃんがちゃんがうまこ」