「公衆食堂(須田町)」の場所

 賢治が1921年(大正10年)に家出をして東京で暮らしていた時期の作品に、「公衆食堂(須田町)」というのがあります。下記がその全文です。

   ◎ 公衆食堂(須田町)
あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりとはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警しめ合へり

 夕暮れ時でしょうか、都会の片隅で群衆の中に混じって、「いそぎ飯を食む」賢治がいます。
 「食器の音と青きむさぼりとはいともかなしく」という表現からは、みんな何もしゃべらず、ただ食器の音だけを響かせ、ひたすら食べ物を口に運びつづけている様子が目に浮かびます。ふとその時、床に落ちた皿の砕け散る音によって、不意に沈黙が破られました。そしてあたりの人は、何事か互いに言葉を発したのです。

 人々の食事という営みが、まるで工場の作業工程のように延々と無機的・機械的に続く中で、ふとその時だけ、「人間」の存在を感じられる瞬間があったのです。

 何気ないメモのような断片ですが、家出青年だった賢治の日常の一コマに、都会の孤独が漂います。

 私は以前に、「「公衆食堂(須田町)」について(1)」「「公衆食堂(須田町)」について(2)」という記事で、この「食堂」はどこにあったのだろうかと考えてみたのですが、結局その時は、確かなことはわからずじまいになっていました。この時ちゃんと答えが出せなかった要因を今から振り返ると、一つは「公衆食堂」という呼称にとらわれすぎていたことと、もう一つは「須田町」と呼ばれる地域を十分正しく認識できていなかったことに、思い到ります。
 その後、2019年に杉浦静さんが、「宮沢賢治のスケッチ「公衆食堂(須田町)」(「東京」ノート所収)について」という論文を発表され(「大妻国文」第50号)、この食堂は東京市神田区にあった「昌平橋簡易食堂」であろうと推定されました。
 私も、あらためてその場所と開設時期から考えて、賢治が作品の舞台としたのは、杉浦さんの説のように「昌平橋簡易食堂」に違いないと思います。

 本日は、この「昌平橋簡易食堂」が、賢治の「公衆食堂(須田町)」と考えられる根拠について確認し、先日その跡地を訪ねてみた経緯をご報告します。

 まず、「簡易食堂」および「公衆食堂」という名称について、あらかじめ整理をしておきます。
 この種の名称を冠して、非営利事業として安価な食事を提供する食堂が東京に出現したのは、1918年(大正7年)1月に社会政策実行団が芝区烏森に開設した、「平民食堂」を嚆矢とします。同年の米価高騰に伴って、全国各地で「米騒動」が起こり、貧困層の食の問題をどうするのかということが、社会的な課題となっている時期でした。
 これ以降、他の慈善団体や東京市による食堂開設が相次ぎ、1922年(大正11年)5月末の時点で、東京市内に開設されている簡易食堂・公衆食堂は、下表のようになっていました(東京府社会事業協会 編『東京府社会事業概観』第2輯(1922-1923)より)。

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 上の表のタイトルが「簡易食堂施設一覧」となっていることにも表れているように、こういった安価な食堂全体の総称として「簡易食堂」があり、その中で東京市が設置した公設の食堂が「公衆食堂」と名づけられたというのが、元々の経緯のようです。
 上表の後に東京市が開設した食堂としては、神田仮設公衆食堂(1923年開設)、日本橋公衆食堂、両国公衆食堂、本所公衆食堂、三味線堀公衆食堂、深川公衆食堂、丸ノ内公衆食堂、九段仮設公衆食堂(以上1924年開設)が続き、いずれも東京市公設の食堂は、「公衆」と名づけられています。これに対して、民間の食堂で「公衆食堂」と自ら名乗っているものは、一つもありません。
 つまり、元来は自治体による公設の食堂のことを「公衆食堂」と呼ぶというのが、行政等による用語法で、まずこれが「狭義の公衆食堂」と言えるでしょう。

 しかし一方で、「公衆食堂」という呼称は、設置主体を問わずに「簡易食堂」と同じ意味で使われることも一部であり、これが用語の複雑さを招いています。(たとえば、ロシア正教が発行する『正教新報』の1909年の記事には、正教会の神父がロシアで慈善的に開設した食堂のことを、「公衆食堂」と呼んでいます。)
 また、杉浦静さんも上掲論文で引用されているように、『東京府管内 社会事業要覧 大正十四年二月現在』には、「公衆食堂」の分類の中に、「昌平橋簡易食堂」も挙げられています(下表)。

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 あるいは、『遊覧東京案内 1922年版』においては、やはり「昌平橋簡易食堂」のことを、「市立公設食堂以外にあつて、新橋平民食堂と共に有名な公衆食堂」と紹介しています。
 つまり、「簡易食堂」と同じ意味で、公共事業や慈善事業として運営される安価な食堂全般を指して「公衆食堂」と言う場合もあり、これを「広義の公衆食堂」と考えることができるでしょう。

 私は以前は、賢治が「公衆食堂」と書いているからには、これは上述の「狭義」の東京市公設の公衆食堂なのだろうと考えてしまったのですが、公衆食堂という言葉の広義の使用もそれなりにあることに鑑みると、東京市設に限定する必要はなかったのだと思われます。

 また、その所在地としては、上の「簡易食堂施設一覧」をご覧いただいたらわかるように、当時存在した簡易食堂・公衆食堂の中で、「須田町」にあるのは「昌平橋簡易食堂」だけです。

 ということで、杉浦静さんの上掲論文における下記の判断に、私もあらためて賛同させていただく次第です。

 こうしてみると、賢治は神田慈善協会の経営する昌平橋簡易食堂を、公衆食堂の一つと認識して、その所在地を多くの東京案内などにならって須田町とし、「公衆食堂(須田町)」と記述したと考えられるのである。

20230625c.jpg この「昌平橋簡易食堂」が位置していた須田町の界隈は、江戸時代の明暦・天和の大火後に、火除地を兼ねた広場が設けられ、その広場からは奥羽街道、日光街道、中山道、甲州街道など多くの街道が発していたことから、「八ツ小路」と呼ばれる交通の要衝になっていたということです。
 右の絵は、安藤広重の「名所江戸百景」から「筋違内八ツ小路」です(国立国会図書館デジタルコレクションより)。
 南東方向から八ツ小路の広場を俯瞰したところで、並木のある緑の堤の向こうが神田川です。

 明治になると、1873年(明治6年)に東京最初の石橋である万世橋が神田川に架けられ、1903年(明治36年)には、上野、新橋、両国などと結ぶ路面電車が開通します。
 さらに1912年(明治45年)には、上図の緑の堤がレンガ造りの高架になり、左上方向の昌平橋駅から中央本線が延伸して、右下に万世橋駅が開業します。
 昔の「八ツ小路の広場」は、万世橋駅前の「須田町交差点」となって、東京市内でも指折りの賑わいを見せるようになりました。

 そして下図は、ちょうど賢治がいた1921年頃の、須田町交差点です(Wikimedia Commonsより)。右手前のレンガ造りの建物が、辰野金吾設計による万世橋駅で、駅舎から広場を挟んですぐ左手奥に位置する小さなドームのあるレンガ造りは、神田郵便局です。駅前の道をたくさんの市電が行き交っていて、交差点の中央に立っている銅像は、日露戦争で戦死して「軍神」と讃えられた廣瀬中尉だということです。
 昌平橋簡易食堂は、この図では神田郵便局の向こう側あたりに位置することになるでしょうか。

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 賢治は、1916年(大正5年)に上京して独逸語夏季講習会に参加していた際に、保阪嘉内に宛てて次の短歌を送っています。

甲斐に行く万世橋の停車場をふっとあわれにおもひけるかな。

 この時賢治が、万世橋の停車場を実際に目にしたのか、ただ想像したのかはわかりませんが、立派な駅舎のイメージとともに、親友に会いたいという思いが、ふと心をよぎったのでしょう。この場所は、江戸時代に甲州街道の起点だった伝統を受け継ぎ、近代の一時期においても山梨へのターミナル駅となっていたのです。

 その後、1919年に中央本線は東京駅まで延伸され、万世橋駅はターミナルとしての地位を失います。追い打ちをかけるように、豪華な駅舎は1923年の関東大震災で被災して、再建された建物はかなり縮小されたものでした。さらに、震災の復興計画で須田町交差点が南に移動したため、市電も駅前を通らなくなってしまいます。
 利用客が大きく減少した万世橋駅は、段階的に解体縮小され、ついに1943年(昭和18年)に廃止されました。

 下の写真は、現在の須田町交差点です。関東大震災前とは場所も変わりましたし、往時の面影は全くなくなって、今は都会にある普通の交差点の一つにすぎません。

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 しかし、そこから少し西の方に歩くと、これも賢治が愛した「ニコライ堂」のドームを見ることができます。

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 下の短歌は、やはり賢治が1916年の上京中に、保阪嘉内に送ったものから。

するが台雨に銹びたるブロンズの円屋根に立つ朝のよろこび。
霧雨のニコライ堂の屋根ばかりなつかしきものはまたとあらざり。
青銅の穹屋根は今日いと低き雲をうれひてうちもだすかな。

 このあたりは、賢治にとっては様々な思い出が詰まった界隈だったのだろうと思います。

 さて、それでは「公衆食堂(須田町)」の舞台となった「昌平橋簡易食堂」が、実際にどこにあったのかということが気になりますが、2018年に杉浦静さんが上掲論文のための調査をしておられた際に、ご親切にもこの食堂が掲載されている住宅地図のコピーを、私に下さいました。
 下記がその「都市整図社 作製 神田区No.30」の一部ですが、黄色く色付けしてあるのが、「昌平橋食堂」です。(クリックしていただくと、別窓で拡大表示されます)

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 この地図によれば、「昌平橋食堂」は昌平橋の北東のたもとにあるわけですが、この地図は「昭和十年七月作製」のもので、関東大震災の後の状態です。
 実は昌平橋簡易食堂は、関東大震災後の区画整理に伴って場所を移転しており、賢治が訪ねた震災前には、橋の南側にあったのです。
 この昌平橋簡易食堂の移転について、1927年刊行の『神田区史』には次のように書かれています。

本食堂も大正十二年九月一日の震災の厄をまぬかれることは出来なかつた。その上区画整理の結果他に移転せねばならぬことゝなつた。対岸の土地の譲渡を請ひ、此の地に移転し復興建築することに決し、現在建築中である。遅くも本年十一月中には移転し得る見込である。

 すなわち、上の地図にあるのは、神田川をはさんだ「対岸の土地」に移った後の店舗だということになるのです。

 移転前の場所は、多くの文献には「昌平橋高架下」と書かれており、上の地図の「対岸」となると、昌平橋の南東のたもと=上の地図で赤い◎を付けたあたりにあったのだろうと推測されます。
 『社会公共事業に関する諸調査 其1』という書籍には、その位置が比較的詳しく書かれています。

 敷地は神田区昌平橋南詰東側なる鉄橋下の道路敷地五十七坪を市より借受け之に充用したるものなるを以て敷地費を要せず又建物は大部分高架線の鉄橋を利用したるが故に其の費額比較的僅少にて足り坪四十七円未満なり、而して本食堂に収容し得る人員は一時に八十名とす。(同書p.34)

 「昌平橋南詰東側なる鉄橋下」というわけですから、昌平橋東側の高架下で、最も昌平橋に近い西端、すなわちやはり上の地図の赤い◎の場所と考えてよいでしょう。

 ということで、先日東京に行ったついでに秋葉原駅で降りて、この場所を見に行ってみました。
 現在、万世橋から昌平橋の間の中央線の高架下は、「マーチエキュート神田万世橋」と名づけられて再整備され、様々なショップが入ったり、昔の万世橋駅の階段が公開されたりしています。
 レンガ造りのガード下には、下写真のようにおしゃれなお店が並んでいます。

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 下写真の階段は、「1912階段」と名づけられていて、1912年(明治45年)に万世橋駅が開業した当時の階段を、移設したものだということです。保阪嘉内も、これを踏みしめていたでしょうか……。

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 さて、マーチエキュート神田万世橋に沿って西に歩き、昌平橋の南詰までやって来ました。
 下の写真で、左端の方に昌平橋の欄干が少しだけ見えますが、「昌平橋南詰東側の高架下」となると、この写真の正面から右方にかけてのガード下に、初代の「昌平橋簡易食堂」があったということになるでしょう。

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 ご覧のように、今はその場所には、お店も何もありません。

 上写真の横断歩道を渡って、昌平橋の上から振り返り、食堂跡地と思われるあたりを裏側から見ると、下のようになっています。

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 やはりガード下はレンガで埋められていて、何の痕跡も見当たりません。
 写真の中央上端のビルに、「〒」のマークが見えますが、これが現在の神田郵便局です。建物はもちろん変わっていますが、その場所は1910年以来同じだということですので、先の旧須田町交差点の図を、概ね反対方向から見ている感じになるでしょう。

 ところで、下写真のように、現在この場所のガード下には、「公衆トイレ」が設置されています。

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 別に何というわけではないのですが、100年を経た同じ場所に、「公衆食堂」のかわりに「公衆トイレ」というわけです。

 このあたりで食事をした賢治にちなんで、何か食べておこうと思い、マーチエキュート神田万世橋に沿って引き返してみましたが、カフェやバーやレストランなど、どれもお洒落な店が並んでいます。なるべく庶民的なところと思い、「たかの」というラーメン屋さんに入ってみました。

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 いただいたのは、「生姜正油ラーメン」です。生姜の風味が効いたあっさりとしたスープに縮れ麺で、チャーシューがたっぷり載っていました。

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 末筆ながら、貴重なご教示をいただきました杉浦静さんに、心より感謝申し上げます。