イーハトヴ発ベーリング行列車

 短篇「氷河鼠の毛皮」は、イーハトヴ発ベーリング行きの、最大急行列車で起こった事件の顛末です。

 このおはなしは、ずゐぶん北の方の寒いところからきれぎれに風に吹きとばされて来たのです。氷がひとでや海月くらげやさまざまのお菓子の形をしてゐる位寒い北の方から飛ばされてやつて来たのです。
 十二月の二十六日の夜八時ベーリング行の列車に乗つてイーハトヴをつた人たちが、どんなにあつたかきつとどなたも知りたいでせう。これはそのおはなしです。

 「イーハトヴ」という空想上の地名が、「ベーリング」という現実世界のそれと線路で繋がっている状況が不思議な感じですが、賢治はこの「ベーリング」という地名がよほどお気に入りだったようで、いろんな作品に登場します。

 ①まずは、『春と修羅』の「一本木野」。

電信ばしらはやさしく白い碍子をつらね
おそらくはベーリング市までつづくとおもはれる
すみわたる海蒼かいさうの天と
きよめられるひとのねがひ

 ②次は「作品」ではありませんが、『注文の多い料理店』の広告ちらし

深い椈の森や、風や影、月見草や、不思議な都会、ベーリング市迄続く電柱の列、それはまことにあやしくも楽しい国土である。

 ③「春と修羅 第二集」の「春 変奏曲」。

  ベーリング行XZ号の列車は
  いま触媒の白金を噴いて、
  線路に沿った黄いろな草地のカーペットを
  ぶすぶす黒く焼き込みながら
  梃々として走って来ます

 ④そして、「春と修羅 第二集」の「奏鳴的説明」の下書稿(一)手入れ形は、いったんは「映画劇「ベーリング鉄道」序詞」と題されていました。

 これらのうち③と④は、「氷河鼠の毛皮」と同じく「ベーリング鉄道」という鉄道路線が、ベーリング市まで敷設されているという設定になっているようです。
 一方、①と②は、目の前の電柱の列がベーリング市まで続いているという情景ですが、一般に電柱の列というのは鉄道線路か道路に沿って立ち並んでいるものでしょうから、やはりこれらにおいても、「ここ」と「ベーリング市」が、交通的に一繋がりになっているという状況があります。

 ①~④の作品が書かれた時期を見てみると、「氷河鼠の毛皮」は1923年4月15日付け「岩手毎日新聞」に掲載されており、「一本木野」には1923年10月28日の日付があります。童話集『注文の多い料理店』は1924年12月1日の刊行なので、広告ちらしが書かれたのは、その少し前と思われます。
 また、「春 変奏曲」の日付は1933年7月4日ですが、これは1924年8月22日付けの「」の関連作品であり、後者においても「ワルツ第CZ号の列車」を「ベーリング行第CZ号の列車」とする手入れがあります(『新校本全集』第三巻校異篇p.280)。
 そして「奏鳴的説明」の日付は、1925年2月15日です。

 以上の日付を見ると、賢治が「ベーリング行き列車」というアイディアを記した作品の構想は、1923年から1925年初め頃までの間に集中しています。これは、1923年5月に、日本本土から樺太に連なる鉄道(および連絡船)の経路が完成したことと、時期的に関係しているのではないかと推測します。

 信時哲郎さんが「鉄道ファン・宮沢賢治」にまとめれておられるように、1922年11月1日に宗谷本線の鬼志別―稚内間が開通して、北海道南端の函館から北端の稚内までが鉄道で結ばれたのに続き、1923年5月1日には稚内から樺太の大泊を結ぶ稚泊連絡船が就航しました。これによって、岩手から樺太の栄浜までが、一本に繋がったのです。
 そして賢治は、まるでこの開通を待っていたかのように(実際に待っていたのでしょう!)、同年7月末から8月にかけて、樺太を旅行します。

 「氷河鼠の毛皮」が新聞に掲載された1923年4月15日は、このルートの開通直前にあたりますが、「イーハトヴ発ベーリング行列車」を舞台とした物語は、現実世界で上記のように北に向かう壮大な鉄道路線が完成する前夜に、まさにふさわしいものと言えるでしょう。賢治は、樺太へと長駆する列車の様子と、まもなくそれに乗るであろう自分のことを想像しつつ、ワクワクしながらこの物語を書いたのではないでしょうか。

 ということで、「ベーリング行き列車」という賢治のアイディアは、「樺太に連なる鉄道」という現実の出来事に触発されたものではないかと私は思うのですが、それではなぜ行き先が「ベーリング」なのか、という疑問が生まれます。
 「ベーリング」という名前は、18世紀にユーラシア大陸と北アメリカ大陸が海で隔てられていることを、西洋人で初めて確認したロシアの航海士ヴィトゥス・ベーリングから取られており、その海峡は「ベーリング海峡」、海峡の南の海は「ベーリング海」と名づけられました。
 つまりもともとこれは、鉄道が走るような陸地とは縁の薄い、「海の地名」なのです。

 となると、なぜ賢治はこのような海の地名を、鉄道でつながった陸の地名として登場させたのかということが疑問になりますが、これについて私が思うのは、賢治の脳裡に「ベーリング」という地名が印象的に刻まれたのは、恩師の関豊太郎教授が行った研究を通してだったのではないか、ということです。
 関豊太郎が官報1907年4月15日号に発表した、「凶作原因調査報告」には、次のような一節があります。

親潮寒流ハべーりんぐ海中ヨリ起リ柬察加半島及千島列島ノ南東側ヲ流下シ北海道ノ南岸ヲ迂回シテ津軽海峡ノ東側ヲ経テ三陸ノ東岸ニ沿フ

 時に東北地方に凶作を引き起こす寒流親潮の淵源は、遠く北方の「ベーリング海」にあり、そこから海流は柬察加カムチャッカ半島―千島列島―北海道南岸―津軽海峡東側を経て、三陸の東岸に至り、黒潮と合流して日本から離れます。
 関豊太郎の研究報告には、岩手県の海側と、遙か北の彼方のベーリング海が、やはり一つのルートとして繋がっている様子が描かれているのです。

 すなわち「親潮」は、「氷河鼠の毛皮」の舞台となった列車とはちょうど逆方向になりますが、北の果ての「ベーリング」に発して、「イーハトヴ」に至るのです。

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黒潮と親潮(Wikimedia Commonsより)