「公衆食堂(須田町)」について(1)

 「「東京」ノート」に記されていた、「公衆食堂(須田町)」と題された作品があります。「一九二一年一月より八月に至るうち」という見出し(?)のもとに、◎印で区切られた断章のようなものが多数並んで記されている中の一つですが、これには題名が付けられているので、いちおう独立した一つの詩作品と見なしてよいものでしょう。
 下記が、その全文です。

    公衆食堂(須田町)

あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警しめ合へり

 人生には、いろいろな「食事の風景」というものがありえます。よく、「食事は人とのコミュニケーションの象徴である」と言われ、ホームドラマで食事場面がしばしば登場するのも、それが人間関係における何かを表現する、格好の舞台設定となるからでしょう。

 で、賢治を含むこの「公衆食堂」での食事風景から感じられるのは、まず何より「都会の孤独」です。時刻は日も暮れてきた夕刻、客は仕事や学校を終えた労働者や学生なのでしょう。みんな慌ただしく黙々と飯を食っている様子を、賢治は「いともかなしく」と描写します。
 しかしその孤独の一方で、2行目に「われら」という一人称複数の視点が出てきます。おそらく賢治は知人と一緒に食事に来たわけではなく一人なのだと思いますが、この「われら」とは、偶々この朝に、食堂で一緒に「飯を食む」ことになった者全体を指すのでしょう。また最後の行で、周囲から飛んだ「警しめ」の言葉とは、「気をつけろ!」とか「静かにしろ!」などだったのかもしれませんが、一見すると殺伐とした食事風景ながら、ドジを踏んだ者を「罵る」のではなく「警しめ合」うというところにも、この食堂に会した他人同士の間に通じている、何かの「仲間意識」のようなものを私は感じるのです。
 つまり、この場末の食堂にあるのは、群衆の中の孤独であるとともに、その都会で懸命に日々を生きつつ今夕たまたま一緒に飯を食っている者同士の、そこはかとない「連帯感」でもあるのです。

 「「東京」ノート」に記されている見出しの日付(「一九二一年一月より八月」)からすると、これは賢治が家出上京していた頃の情景かと思われます。田舎から独り東京へ出て来た賢治は、このように急ぎ食事をとっては家に帰る日常において、「本当に都会で一人暮らしをしている」ということを、心から実感したのではないかと思います。


 ところで、この作品の舞台となった「食堂」がいったいどこだったのかということが、どうしても気になるところです。作品の題名には、賢治がわざわざ(須田町)と記入していることから、これは大正末期から東京でチェーン展開を行っていた、「須田町食堂」ではないかという説があります。
 当時、「須田町食堂」を経営していた「聚楽」という会社は、実は現在もホテルやレストランを多数経営している大会社ですが、ちょうど最近になって、懐古的にまた「須田町食堂」という名前をリバイバルさせて、秋葉原に店舗を出しているところです。

須田町食堂

 上の写真は、私が以前ちょっとしたついでに、その新版「須田町食堂」に行ってみた時のものです。入口に出てきておられるウェイトレスさんがメイドの格好をしているのは、「ここが秋葉原だから」ではなくて(笑)、単にレトロ調の雰囲気を出すためでしょう。

須田町プレート この時に私が食べたのは、右の「須田町プレート」というメニューでした。チキンライスに、ポークソテー、小さいグラタン、ズッキーニや茄子のラタトゥイユ風の炒め物、サラダ、カップスープが付いたものです。
 これは「大人のお子様ランチ」というコンセプトのようで、味はまずまずでしたが、1800円という値段は、立地条件にもよるのでしょうか。お店は、「秋葉原UDX」という、駅からすぐ近くの近未来的な雰囲気のビルに入っていたのです。

 ただ、いろいろ考えてみると、賢治の「公衆食堂(須田町)」の舞台となったのは、この食堂の前身の「旧・須田町食堂」ではなかっただろうと、私は思うのです。
 そのあたりについて、また次回に書いてみたいと思います。

 鍵になるのは、「公衆食堂」とはいったい何なのか、ということです。

[ つづく ]