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原体地区逍遙(1)

 去る5月4日に、岩手県奥州市江刺の原体地区を訪ねてきました。

 賢治の詩「原体剣舞連」は、その勇壮な声調と幻想的な描写から、『春と修羅』の中でも人気が高い作品で、私も大好きなのですが、賢治がこの剣舞を見たと思われる場所を一度見てみたいというのが、今回の動機でした。
 川原仁左エ門編著『宮沢賢治とその周辺』(1972)には、盛岡高等農林学校3年時の江刺郡土性調査の際の同級生高橋秀松の証言として、次のような一節があります(同書p.61)。

 原体村の見学は秋の夜であつた。杉の大木に囲まれた神社の庭で弦月下、たき火を中心に剣舞連は始まつていた。太鼓の音ははげしくドド、ドドスコドンと鳴つていた。賢治はホーホーといい乍ら手帳にメモしている。

 上に出てくる「杉の大木に囲まれた神社」というのがどこなのか、これまで私にはわかりませんでしたが、昨年刊行された『同窓生が語る宮澤賢治』(岩手大学農学部北水会)では、「原体村から、近くを流れる伊手川の橋を渡り約2kmのところにある大山祇神社(虚空蔵堂)(江刺区田原虚空蔵)である」との特定がなされているのを見たのです(同書p.76)。
 さらにこれに関連して、文教大学の鈴木健司さんが、原体地区にある宝城寺というお寺の歴史をまとめた『宝城寺史』(小野寺慶一著、2013)に、原体剣舞は「宝城寺、虚空蔵堂、長根坂石碑群前の三ヶ所で踊ったと伝わっている」との記載があるという調査結果を、最近ご教示下さいました。

 ということで、ぜひともこれらの場所を見てみたいと思った次第です。

 5月4日の朝、東北新幹線の水沢江刺駅に降り立ちました。駅の西口の前は、下のように広々としています。右手奥に見える雪山は、焼石連峰でしょうか。

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 この水沢江刺駅前の「奥州市伝統産業会館」では、レンタサイクルもやっていますので、今日はこの自転車を借りて、原体地区に行ってみます。
 水沢江刺駅から原体地区の中心部までは4~5kmで、もちろん歩いて行くこともできますし、また平日には「江刺バスセンター」から原体地区の「稲荷」や「醍醐」に向かう、奥州市営バスの「田原原体線」も、1日2本ながら出ています。
 しかし今回は連休中でバスは休みの上、原体地区の中でもかなり移動する予定ですので、自転車を利用することにしました。

 下の写真が、駅を出て左前方徒歩1分にある、奥州市伝統産業会館です。ここ江刺は、南部鉄器の発祥の地ということで、その歴史や南部鉄器の製造工程が学べるようになっています。

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 ちなみに、こちらのレンタサイクルは4時間までが300円、4時間以上が500円で、貸出時間は9:00~17:00、問い合わせ先はTEL.0197-23-3333 です。

 目的地の原体地区は、水沢江刺駅の東側なので、自転車にまたがると新幹線の高架をくぐって、東に広がる田園地帯に出ます。
 下は、北東方向に向かう道路です。ちょっと風は強いですが、天気が良いので気持ちがいいですね。

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 道なりに走っていくと、途中で「伊手川」を左に見ながらさかのぼる形になり、川に架かる「熊川橋」の東詰めで、国道456号線と交差します。ここで伊手川を左に渡って、対岸を進むこともできますが、今回は下写真の右手の道をそのまま直進します。

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 上の写真で、正面奧に見える林に入って進んで行くと、下写真のように川幅も狭まってきます。このあたりに、旧原体村の村境があり、いよいよ原体地区に入るところです。

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 小高い丘陵地帯の切り通しを越え、ふと右手を見ると、道端に「原体には美しき四季がある」と刻まれた石碑がありました。

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 この碑文を揮毫した小野寺玉峰という方は、1925年(大正14年)に原体村で生まれ、全米美術展グランプリやイタリアビエンナーレ展最高賞を受賞した、ブロンズ彫刻家ということです。

 道はこの石碑の少し先で、県道251号線(玉里水沢線)に突き当たり、ここで原体地区の平野が、一望できるようになります。
 下の写真は、突き当たりから右の方を見ているところで、この県道玉里水沢線をずっと進んでいくと、道はゆるやかに左にカーブし、原体地区の中心部に入っていくことになります。

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 さて今日は、この原体地区でまず最初に、「経塚森」という山の上にある「原体剣舞連」詩碑を見に行ってみます。この詩碑には、2000年8月に一度来たことがありましたので、22年ぶりということになります。

 引き続き県道玉里水沢線を進んで行くと、左手に「農家手づくり米パン」と書いた看板が出ている店が見えてきます。下の写真では小さくて文字までは読めませんが、銀色の車の上あたりに見える看板がそれです。
 この看板から140mほど手前にある、下写真の目の前の道を、右に折れます。

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 この道をしばらく行くと、下写真のように、左手に塗装のはげた木の柱が立っています。

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 この柱は、今となっては何が書いてあるのかわかりませんが、もともとは「宮沢賢治詩碑入口」と書いてあったのです。
 ということで、ここからは自転車を降りて徒歩になり、木の柱の場所で左に折れ、舗装のない林道を「経塚森」の方へと登って行きます。傾斜はまずまず緩やかで、木柱のあった分岐点から1.5kmほど、ゆっくり歩くと30分くらいで、草原のようになった頂上に出ます。標高は191mということです。

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 上の写真で、稜線上の木の下にちょこんと黒く見えるのが、賢治の詩碑です。

 正面に回ると、こんな感じです。

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 白御影石の碑石に、原体の稚児剣舞の様子を刻んだブロンズのレリーフがはめ込まれた、立派な詩碑です。
 この碑が建立されたのは1968年で、すでに50年以上が経過しており、詩のテキストを刻んだ面の上に、ブロンズの表面が雨で浸食され流れた跡が付いていますが、それ以外はきれいに保たれています。
 碑の向きは、花巻の方角を望むように建てられているということで、下の「稚児」さんたちの視線の先が花巻というわけです。

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 稚児たちが頭に着けている飾りは「ざい」と呼ばれ、江刺地区の剣舞では、これを鶏の羽で作るのが特徴で(「鶏羽菜」)、剣舞の庭元はこのために鶏を飼育しているということです。賢治の「原体剣舞連」では、「とりの黒尾を頭巾づきんにかざり……」と描かれているところですね。

 詩碑の隣には、この山が「経塚森」と呼ばれる元となった、「経塚」の石碑があります。

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 この碑の下は、土饅頭のような盛り土になっており、この地中に何かのお経が埋められているのでしょう。
 『原躰郷土史』によれば、旧原体村には村の周りを囲む形で全部で八つの「経塚」があって、いずれも「村人を護る」という願いを込めて作られたものと考えられています。中でも、この経塚森にある塚が最も古く、上の石碑には1615年(元和元年)の文字があり、これは原体村の八つの経塚の中でも別格とされる存在だということです。

 後述するように、昔から原体剣舞が舞われていた場所は、おもに伊手川の西側の山手でした。それなのに、賢治の「原体剣舞連」詩碑が設置されたのが、伊手川の東の山奥のこの場所だった理由としては、ここが神社仏閣とはまた別の意味で、原体地区の「守り神」的な聖地であったことが、関係しているのかもしれません。
 また、地中に経典を蔵した「経塚」のすぐ隣に詩碑を建てるというのは、賢治が晩年に「経埋ムベキ山」を構想していたことからも、ぴったりな感じです。

 下の写真は、経塚森の頂上から、北西の奥羽山脈の方向を眺めたところです。

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 さて、経塚森から下山して、次は県道沿いで先ほど見た看板の店に向かいます。「農家手づくり米パン」が名物の、「夢の里工房はらたい」です。

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 このお店は、原体地区の農家70軒以上が加入する農事組合法人「原体ファーム」が、全国の農村に共通する悩みである後継者不足を課題としつつ、この集落の農業の未来のために、どのような事業を行っていけばよいのかを話し合った結果、この地で収穫するお米を原料とした「米パン」を焼いて販売してみようということになり、2005年に創業したというものです。
 当初はこんな場所に店を出しても、「田んぼの真ん中にパンを買いに来る人などいるか」と言って反対する人も多かったということですが、この米パンのレシピを編みだした組合員の斎藤貞二さんは、『現代農業』のインタビューに対して、次のように語っておられます(『現代農業』2007年5月号より)。

 繁盛しているパン屋なんて、岩手県内じゃ盛岡の駅前まで行かないとないんですよ。繁華街とは正反対の田んぼの真ん中でパン屋を始めるなんて、商売の専門家にはおよそ常識外の発想ですが、「米パンはスーパーのわきで売ってもしょうがないんだ、こういう田んぼに囲まれたロケーションがいいんだ」っていう信念を組合長が貫き通したからよかったんですね。

 そして、いざ蓋を開けてみると、開店当初は毎朝100人ほどの人が列を作って待つほどの人気を呼び、今でも水沢駅からタクシーを飛ばして買いに来るお客さんもいるという繁盛ぶりを維持しています。
 私が訪ねた日も、ちょうど休日のお昼前の時間帯でしたから、店の横の駐車場にはひっきりなしに買い物客のマイカーが出入りしていました。

 農家の人たちが組合を作り、皆で話し合って工夫して、手づくりの素晴らしい製品を産み出し、都会の人々にも受け容れられるというのは、まるで「ポラーノの広場」を彷彿とさせるようなストーリーですね。
 ということで、私が「夢の里工房はらたい」で購入したのは、下の「カマンベールチーズ入りクロワッサン」と、「焼きカレーこっぺぱん」でした。

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 「夢の里工房はらたい」のすぐ先の道を左に入ると、黒い大きな石碑がありましたので、その横の木陰で、パンをいただきました。
 クロワッサンの外側はサクサクと香ばしく、中はふわふわもっちりとしていて、本当に美味しかったです。
 『原躰郷土史』によれば、旧江刺郡の美味しい餅米の産地として、昔から「一原体、二横瀬、三増沢」という言葉があるそうで、そう言われてみれば「夢の里工房はらたい」でも、お餅を販売していました。
 ここの米パンに使われているのは、原体の田んぼでとれた「江刺金札米」というこの地方のブランド米で、餅米とは違いますが、そのもちもちとした食感は、何かこの地区の伝統も感じさせます。

 ところで、私が休憩してパンを食べた場所にあった石碑は、下のようなものです。

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 碑石には、江刺市長(当時)の揮毫で「豊饒准平原」と大きく刻まれています。「原体剣舞連」の、「准平原の天末線に/さらにも強く鼓を鳴らし……」からの引用ですね。
 裏面の説明を読むと、この碑は原体地区の「農業生産基盤整備事業」および「農村生活基盤整備事業」(区画整理、暗渠排水、伊手川の河川改修、農業集落道整備、農業公園整備等)が、2004年に完了したことを記念して建てられたということで、振り返ればそもそもこの整備事業の成果をどう生かすかということから、「夢の里工房はらたい」も生まれたわけでした。

 休憩の後、次は賢治が原体剣舞を見たであろう場所を目ざしたのですが、記事もかなり長くなりましたので、続きは次回ということにさせていただきます。
 最後にもう一度、「夢の里工房はらたい」を反対方向から見た写真を貼っておきます。ここのパンは、今思い出しても本当に美味しくて、皆様にも是非お薦めしたいと思います。

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