「はゞけてゐる」の意味

 「〔小岩井農場 第五綴 第六綴〕」に、次のような箇所があります。

五時の汽車なら丁度いゝ。
学校へ寄って着物を着かへる。
堀篭さんも奥寺さんもまだ教員室に居る。
錫紙のチョコレートをもち出す。
けれどもみんながたべるだらうか。
それはたべるだらう、そんなときなら
私だって愉快で笑はないではゐられないし
それにチョコレートはきちんと、
新らしい錫紙で包んであるから安心だ。
しかしその五時の汽車は滝沢へよらない。
滝沢には一時にしか汽車がない、
もう帰らうか。こゝからすっと帰って
多分は三時頃盛岡へ着いて
待合室でさっきの本を読む。
いゝや、つまらない。やっぱりおれには
こんな広い処よりだめなんだ。
野原のほかでは私はいつもはゞけてゐる
やっぱり柳沢へ出やう

 ここで、下から2行目にある「はゞけてゐる」というのは、いったいどういう意味なのでしょうか。

 こういう場合に、いつも最初にお世話になる『定本 宮澤賢治語彙辞典』には、次のように書かれています。

はゞけて【方】 広げる、開くことがハバケルだが、転じて窮屈、のどにつかえるの意にも。童[氷と後光(習作)]に「そんなに舌を出してはゞけてはいかん」とあるのは、むせるの意、詩「小岩井農場 清書後手入稿第五綴」の「野原のほかでは私はいつでもはゞけてゐる」は窮屈の意であろう。

 つまり、これは方言で、「野原以外の場所では、私はいつでも窮屈だ」という意味だろうということです。ただしかし、説明の最初に書かれている「広げる、開くことがハバケルだが、転じて窮屈、のどにつかえるの意にも」というのが、よくわかりません。「広げる・開く」ことと、「窮屈・のどにつかえる」では、正反対の意味に思えるのに、どうして前者が「転じて」後者になるのでしょうか。

 そこで図書館に行って、『日本国語大辞典』を調べてみましたら、次のように書かれていました。

はばける【幅】《動》[方言] ①障害物を置く。ふさぐ。岩手県気仙郡100 宮城県栗原郡113 登米郡115 山形県東田川郡・西田川郡「入口に自転車二台もはばけてあるので入れない」139 新潟県東蒲原郡368 ②食べ物がのどにつかえる。また、つかえて苦しむ。北海道065 青森県073 075 083 秋田県鹿角郡「餅にはばけて眼を白黒した」132 山形県139 新潟県347 361 368 ◇はんばげる 山形県西置賜郡152 ③食べ物を嘔吐する。新潟県東蒲原郡「餅は見ただけではばけそうだ」368 ④思案に余る。持て余す。青森県073 秋田県鹿角郡「工夫にはばける」132 ⑤広げる。はだける。延べる。青森県073 津軽「両脚をはばげる」075 山形県西置賜郡139 新潟県東蒲原郡「布きれをはばける」368 ◇はんばげる 山形県西置賜郡152 ⑥乱雑にする。取り散らかす。新潟県東蒲原郡368 岐阜県飛騨502 503 504 ⑦(補助動詞として)し損ねる。山形県「全部は食いはばけた」「忙しくて仕事をしはばけた」139

 これはさすがに『日本国語大辞典』!という感じで、京都府立図書館にあったどの方言辞典よりも、この記述が詳しいものでした。とりわけ、「はばける」の「はば」は、「幅」なのだという記載によって、私もすんなりと腑に落ちました。
 すなわち、北海道~東北地方の方言「はばける」の原義は、おそらく「幅を取る」というような感じかと思われ、幅を取る本体の側から状態を見れば「広げる・開く」という意味になる一方で、何かに幅を取られて圧迫される側にとっては「窮屈・のどにつかえる」の意味になるのでしょう。

 ということで、「小岩井農場」(清書後手入稿)の「野原のほかでは私はいつもはゞけてゐる」という部分にもどって考えてみると、これは上記①の意味で「(障害物があるように、心が)ふさがっている」とか、あるいは上記②の意味で「(食べ物がのどにつかえたような)苦しさがある」というようなニュアンスなのかと思われます。
 上記引用の6~7行目の、「そんなときなら/私だって愉快で笑はないではゐられない」というような状態の、ちょうど逆に相当するのでしょうか。

 1922年5月21日というと、賢治が稗貫農学校の教師となってまだ半年ほどの時期ですが、教員室で他の先生たちといる時には、かなり気詰まりだったのかもしれません。

 教師に成り立ての頃の賢治に関して、たとえば着任時の挨拶については、次のような証言があります。

 南側の開け放された養蚕室で、畠山校長が先生を紹介された。その後に先生は壇の上に立って至極簡単に「ただ今ご紹介をいただいた宮沢です」といって礼をして壇をおりられた。私たちは、宮右かまどの賢治さんだと思い、石鳥谷や矢沢から来た人たちは宮沢の人だと思い、先生を知らない生徒はごく少数であった。
 また照井謹二郎(大・十二卒)は「あまりのあいさつの短さに驚き、次の言葉を何と発するか、先生の口もとを見つめて期待していた生徒たちは一瞬とまどいさえ感じた」と語っている。(『証言 宮澤賢治先生』p.144)

 また、その授業については、次のような話があります。

 今追憶して面白いことは、先生は、授業は初めてだったらしく、お馴れにならなかったでしょう。最初の頃は、早口で、私ども生徒にはなかなかその講義に追っつけないのです。「ちっともわからん。ちっともわからん」と連発して口うるさい隣席の大内金助君や、前席の小田島治衛君、そのほかの連中もわいわい騒ぐものですから、おそらく隣室の職員室(校長も同室)にも聞こえたのでしょう。あるいは廊下を通りすがりの校長先生がこの様子を知ったのかも知れません。二、三日してから校長先生は、宮沢先生の授業を見に来られ、三〇分ばかり見てから教室を出られました。
 その後の先生の授業は、かなり緩やかになり、回を重ねるにつれてだんだん丁寧さを増し、どの授業も非常にわかりやすくなりました。(『証言 宮澤賢治先生』p.145)

 さらに、堀籠文之進は次のように言っています。

(最初の印象は)洋服を着て丸坊主、なかなか物固くて和尚さんのような感じでした。
賢治がかたい感じがなくなったのは、オルガンをひいたり、髪を伸ばしてポマードをつけたり、作曲を始めてからであった。(『証言 宮澤賢治先生』p.145、46)

 ということで、着任したての賢治は、学校では堅苦しくてあまり快活ではなく、すなわち「はゞけてゐた」ということなのかと思います。