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フェヒナー『死後の生活』と賢治

 岩手大学の木村直弘さんは、この数年にわたって、ドイツの物理学者・美学者・哲学者であるグスタフ・フェヒナーから賢治への影響について、数多くの論考を発表しておられます。
 私自身、当初はフェヒナーと言われても全くぴんと来なかったのですが、「感覚の強さは刺激の強さの対数に比例する」という「ウェーバー・フェヒナーの法則」に、現在もその名をとどめている人だということです。そう言われれば何となく、昔そんな法則を習ったような気もしますが、今や一般的にはあまり名前が知られている人とは言えません。

 ただ、彼が200年近くも前に書いた一冊の本は、現代日本でも読まれ続ける超ロングセラーになっており、Amazon にもいくつもレビューが載っているのです。

フェヒナー博士の死後の世界は実在します フェヒナー博士の死後の世界は実在します
グスタフ フェヒナー (著), 服部 千佳子 (翻訳)

成甲書房 (2008/9/2)

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 ということで、今日はこの本に関するお話です。

 そもそも、賢治がこのフェヒナーの所説に触れていたという証拠は、賢治がノート断片に記していた「思索メモ5」と呼ばれる書き付けにある、「◎多様ノ統一ノ原理/◎美的明瞭性ノ原理」という言葉にあります。つまり賢治は、多彩な活動をしていたフェヒナーの仕事の中で、美学者としての側面を知っていたらしいのです。
 具体的には、木村直弘氏の最近の論文「〈多様ノ統一ノ原理〉再考―宮澤賢治におけるグスターフ・フェヒナーとの思想的結節点をめぐって」(宮沢賢治研究Annual Vol30; 107-127, 2020)によると、当時の美学書においてこの「多様の統一」と「美的明瞭性の原理」という二つの原理が一緒に取り上げられている例は、フェヒナーの著書『美学入門』における「美的快感・不快感に関する六つの一般原理」の他にはないということであり、賢治のメモにはフェヒナーの論の内容が反映しているということになります。
 また、賢治が「農民芸術概論綱要」の「農民芸術の本質」の用紙欄外に書き込んでいた11人の人名の一つに、"Fechner"の名前があることからも、賢治は確かに当時、このフェヒナーの美学理論を知っていたのだろうと推定されるのです。

 ただ、当時まだフェヒナーの美学書は、1冊も日本語に翻訳されておらず、賢治が自らの専門分野でもない原書を、わざわざ取り寄せて読んだ可能性は、あまり高そうではありません。ここで木村氏は、賢治生前の蔵書の中には、多数の傍線が引かれたリップス著『美学大系』の邦訳があり、この本では「多様における統一」について、他の概説書よりも詳述されていることに着目されます。
 この本を通して、賢治がフェヒナーの美学理論を知ったという可能性は十分ありえるでしょうが、ただその場合でも、当時は内外の多くの論者が「多様における統一」という観念について取り上げていた中で、なぜ賢治が特にフェヒナーに関心を持ったのかは、興味を引かれる問題です。

 ここで注目されるのが、フェヒナーの小著『死後の生活』です。これは、人間の死後の生や、生者と死者の交流について述べた、まあ今で言う「オカルト的」な異色の書なのですが、当時の心霊学ブームに乗って日本でも翻訳が版を重ね、かなりの話題となっていたのです。木村氏は、賢治は美学よりも先にこの『死後の生活』によって、フェヒナーを知っていたのではないかと推測しておられます。

 賢治が、この『死後の生活』を読んでいたのでなないかという可能性については、古くは小野隆祥氏が『宮沢賢治の思索と信仰』(泰流社, 1979)において、次のように触れています。

*『来世の有無論』は仏教関係に限られたのでなく、多分はフェヒネル著平田元吉訳「死後の生活」(明治四三・九丙午出版)に触発されたものであった。(引用者注:島地)大等は四十五年四月六日、この書を岩手県立図書館に寄贈した。賢治が大等の示唆で同書を読んだ可能性はかなり大きい。グスターフ・T・フェヒネル(精神物理学の創説者)は死後の霊が宇宙に充満し、継続活動しているが、吾人はそれを覚知する官能を有せぬだけであると説いた。彼の無意識に関する説や自我から社会国家宇宙にいたる段階説などが賢治の「綱要」の思想と相通ずることが認められる。

 一方、木村氏の上掲論文の指摘によれば、賢治が盛岡高等農林学校在学中に英語教師をしていた小熊虎之助という人が、1918年12月発行の『校友会会報』第37号に、「心霊現象の研究に就いて」という文章を寄稿し、そこでフェヒナーの『死後の生活』を紹介しているというのです。小熊は、文末に掲げた参考文献その最後に「平田元吉訳補フェヒネル死後の生活」を挙げ、「実験心理学や、実験美学の創立者で、卓越した科学者であつた、独逸のフェヒネルの、人間精神不滅論であつて、哲学説であるだけ、それだけ、私には、非常に面白いものゝ様に思ふ」と記されているとのことです。賢治はこの当時、盛岡高等農林学校の研究生で、この号の消息欄には賢治の近況も掲載されていることから、木村氏は「この号を賢治が読んだ可能性は極めて高い」と判断しておられます。それにしても木村さんの調査力には脱帽です。

 つまり上記をまとめると、賢治がフェヒナーの著書を読んだという確かな証拠はないものの、➀「農民芸術概論綱要」の欄外に"Fechner"の名前をメモしており、②フェヒナーの美学理論の内容を把握して「思索メモ5」に記しており、③状況証拠からするとフェヒナーの著書『死後の生活』を読んでいた可能性が高いと思われる、ということになるわけです。

 さてそうなると、私として最も興味を引かれるのは、これまで自分なりに妹トシの死後の賢治の心の遍歴についていろいろと考えてきた関係上、フェヒナーの『死後の生活』の内容が、トシの死後に賢治が考えていたこと・感じていたことに、何らかの影響を与えていたのだろうか、ということです。これについては、木村直弘氏も上掲論文において、次のように述べておられます。

日本におけるフェヒナーの死生観受容を調べた岩淵輝は、『死後の生』が四回も翻訳出版されている理由として、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦といった戦争が当時の人びとに死を強く意識させたことを挙げているが、妹トシを失った当時の賢治にとっても、死者との交通=「通信」が最大の関心事であり、それが『春と修羅』に反映されているのは言うまでもない。たとえば、『死後の生活 新版』第六章冒頭を引けば、

 死後人が現世に於て最も愛した人と再会し、之と交通し、従前の関係を新にしやうとの、皆人が抱いて居る切望は、嘗て予想され約束されたよりも、一層完全に遂げらるゝのである。
 此世に於て精神的要素が共通であつたが為めに結合した人々は、次世にて相逢ふのみでなく、此要素に依りて、一体となり生長するのである。該要素は、彼等に共同な精神的肢となり、而してこの肢は、両者が一様に意識を以て、自分の有とするのである。

とある。ここに示された、「多様の統一」的発想に基づく、死者との交通についての(就中下段の)文章は、妹を失った賢治の心に大きく響いたことであろう。

 トシの死後の賢治の心理過程(喪の作業グリーフ・ワーク)について私の思うところは、これまでも当サイトに何度か書いてきましたが、簡単に言えば次のようなことです。
 すなわち、当初1922年11月に妹を亡くしてから1923年8月の樺太旅行あたりまでの賢治は、トシ喪失の苦悩のあまりその行方を必死で探し求め、彼女との「通信」を願うものの思いはかなわず、悲嘆と孤独感を募らせていました。しかしその後、徐々に心境の変化が起こり、最終的に1924年7月に至ると、なぜかトシの存在を身近に感じつつ時にはその声を聴いたりもするようになり、やっとその苦しみは癒されていったのではないか、というものです。

 このような賢治の心情の変化と、フェヒナーの『死後の生活』の内容との間に、何か通じ合うものがあるのだろうか、というのが今回の私の関心事なのですが、とりあえずフェヒナー著『死後の生活』の内容を見てみましょう。賢治の時代のこの本の訳書としては、1910年刊行の初版と、同じ訳者・同じ出版社による1924年1月刊行の新版があるのですが、上記のように島地大等が岩手県立図書館に寄贈し、小熊虎之助が校友会会報で紹介したのは、いずれも初版でした。

20201220a.jpg 「国会図書館デジタルコレクション」に収録されている、フェヒネル著・平田元吉訳補『死後の生活』初版の表紙は、右のようなものです。
 この本の第一章では、最初にフェヒナーの死生観が明かされるのですが、それは人間の生というものを、三つの段階で捉えます。
 まずフェヒナーの言う生の第一段階とは、母親の胎内にあって、この世に出生するまでの状態のことです。この段階の人間は、暖かく栄養的にも満たされた環境にはあるものの、暗く窮屈な空間に囚われ、それぞれは孤立しています。
 第一段階から第二段階への移行は、一般に「誕生」と呼ばれます。胎児にとってそれは、自らの存在が崩壊するほどに、辛く苦しいものかもしれません。しかし人間は、この生の第二段階において、肉体という陋屋に縛られながらも空間的な活動の自由を得て、また霊的な存在としての側面も獲得し、様々な他の人々と精神的交流を深めるようになります。
 第二段階から第三段階への移行は、一般に「死」と呼ばれ、第二段階にある人々はそれを何より恐れています。しかしフェヒナーによれば、この第三段階においてこそ人間は肉体から解放され、初めて完全に霊的な存在となり、無窮の活動を続けられるようになるのです。第一段階では眠ったままで、第二段階では睡眠と覚醒を繰り返していた霊は、ここに至って永遠の覚醒を獲得し、高次元の生命体として他の霊とも融合し、事物の究極の姿を理解するのだというのです。

 この第三段階の霊について、フェヒナーは第一章の最後で次のように述べています。(以下、引用はいずれも1924年の新版によります。)

靈は又た言葉や身振で、思想を他人の心に起すの莫迦骨折をするの必要がない。靈と靈とは、形態によりて分離せられないで、却て之に依りて結合せられ、相互間の直接の交渉作用に於て、思想を起すの樂が生ずるのである。
 靈は、現世に殘し置きたる親愛する者に、外的に現はれずして、彼等の靈魂の一部となりて、其の靈魂の深奥の精神に住し、其の内に在り且つ其を通じて思考行為するであらう。

 つまり、人間の生の第三段階にある霊は、互いに結合し、互いに自由に交通できるというのです。この高次の霊同士の関係について、フェヒナーはさらに第七章で次のように述べています。

此の代わりに靈と靈との高等の交通生活が始まるのである。思想相互の交通が吾人の精神内に於て起る如く、靈と靈との交通は、一層高尚なる他の靈内に於てするのである。此高等の靈若しくば一切を結合する其の中心點を、吾人は神と名づくる。吾人が思想の活動も、實に此交通の一分枝に過ぎぬのである。

 このように、人間の霊と霊が相互に結合し、その中心に神が在るという考えは、同時代アメリカのエマーソンが考えていた「大霊」という思想と、ほとんど区別がつかないほど似ています(「エマーソンの「大霊」と賢治」参照)。エマーソンには中学生時代から親しんでいた賢治ですから、もしもこのフェヒナーの本を読んでいたら、共感するところが大きかったことでしょう。
 ちなみに私はこれを読んで、柳田国男が想定する日本の固有信仰としての祖霊論も連想しました。そこでは、死者の霊は死後の年数が経つうちに、徐々に互いに融合していき、最終的には一体となって、集合的な「祖霊」を形成すると考えられているのです。フェヒナーが描くこのような霊の様子や、「死者は別世界に行かずにこの世界にいて、生者を見守ってくれている」という考えは、キリスト教よりも日本人の死生観と不思議に共通するものがあり、これが日本で長らくフェヒナーの『死後の生活』が受容されている理由なのではないかというのが、私の感想です。

 さて、このような『死後の生活』の第五章は、邦訳で「死者との交通」と題されています。ここでフェヒナーは、生者は死者を思うことで、死者と会うことができるのだと説いています。その中には、トシを思う賢治との関連で興味深い部分もありますので、少し長くなりますが以下に引用させていただきます。

 戀人はその戀しき人を奪はれ、夫はその妻を奪はれ、兒はその母を奪はる。彼等その裂き持行かれたるいのちを、遠き天に求むるも甲斐なし。虚空を視詰みつめ、虚空に手を延すも甲斐なし。彼等の戀慕へるもの、實は彼等より裂き奪はれたるのでない、只だ外的交通の緒が絶えたばかりである。兩方が由つて以て互に了解した外的官能に依れる間接の交通が、内的官能に依れる内的直接的交通になつただけである。彼等はまだ此内的交通により互に相語ること學ばなかっただけである。
 予は嘗て、母がその生きて居る小供を自分の腕に抱いて居りながら、心配して、家や庭を尋ねまわつて居るのを見たことがある。死者を遠方の虚空に求むるの誤は、之より一層大である。之を自分の側に見出すには、只だ自己の内心を見れば宜いのである。母がその内心に全く兒を有たぬのに、外的に腕に之を抱いてゐたとて、全く之を有つたと謂へるであらうか。外的交通の便利、即ち外的言語、外的瞥見、外部的鞠養は、最早や之を受け、之を與ふることは出來ないけれども、内的交通の便利は、今まこそ初て之を有ち、之を與ふることが出來る。只だ内的交通、かやうな交通の便利あることを知りさへすれば宜いのである。此処に居らぬと思へる人と、話すこともなければ、握手することもない。只だ諸君が、此等のことをよく辨へば、故人と生者との新生活が開始せらるゝであらう。同時に死者もこゝに同じく利益を受くるであらう。
 只だ熱心に死者を思へ。さすれば死者の思想だけでなく、死者自身が、直に其處に在るのである。諸君は只だ心から彼を招け、彼は必ず來るに相違ない。

 思えば、1922年11月のトシの死によって、賢治は愛する妹をまさに「奪われ」たのでした。彼は、自分のもとから「裂き持行かれたるいのち」をひたすら追い求め、翌1923年8月には樺太まで行き、その姿を「遠き天に求むるも甲斐なし」という結果に終わりました。上の引用と照合すると、オホーツクの海で賢治が求めた妹からの「通信」は、フェヒナーが言うところの「外的交通」にほかなりませんでした。
 しかし翌1924年になると、彼の心境は徐々に変化を見せはじめ、7月の「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」では、すぐ身近なところから妹の声を聴くようにもなるのです。ここでついに賢治は、愛するトシとの間に、フェヒナーの言う「内的交通」を持つに至ったと言えるでしょう。
 また、同月の「〔北上川は熒気をながしィ〕」では、トシを思わせる妹が、兄に対して生き生きと語りかけ、兄妹で楽しい時間を共有しています。ここでは、上の方の引用のフェヒナーの言葉にあるように、「靈は、現世に殘し置きたる親愛する者に、外的に現はれずして、彼等の靈魂の一部となりて、其の靈魂の深奥の精神に住し、其の内に在り且つ其を通じて思考行為す」という状態が実現しています。

 賢治がフェヒナーの『死後の生活』を読んでいたという確かな証拠はありませんし、また読んでいたとしてもそれがいつのことなのかはわかりません。しかし、実際に賢治はトシの死後2年近くの年月をかけて、フェヒナーが書いているとおりに、トシが「現世に残し置きたる親愛する者」として、彼女との新たな関係を構築することができたのです。
 『死後の生活』の邦訳新版が、1924年1月に出版されていることからすると、その刊行から間もなく賢治がこれを読み、前年までのようにひたすら亡き妹との「外的交通」を求めるのではなく、「内的交通」に心を開こうとしたと考えると、ちょうど時間的な辻褄が合うことになります。しかしこれは現時点では、あくまで一つの仮説としておきましょう。

 ところで、その前半生は実証的な自然科学者としての研究業績を挙げてきたフェヒナーが、なぜ突然このように霊的・神秘主義的な書物を公刊したのか、とても不思議な感じがします。私が思うには、この本の内容は、観念的あるいは理論的に考え出されれたものではなくて、フェヒナーその人が、身をもって感じていた事柄だったのではないでしょうか。
 『死後の生活』の訳者である平田元吉氏が、本書の後半に「附録」として付けている「フェヒネルの生活及び哲學」によれば、フェヒナーは高名な牧師の息子として生まれましたが、6歳の時に父を亡くし、さらに母とも離されて、叔父のもとで養育されたのです。父親を亡くした喪失感と母親とも離れた孤独の中で、亡き父を切に求める気持ちが、少年フェヒナーに「死者との交通」を願わせ、そして現にそれを確信するに至ったのではないかと、私には思えるのです。
 上に引用した、「只だ熱心に死者を思へ。さすれば死者の思想だけでなく、死者自身が、直に其處に在るのである」という言葉は、父を亡くしたフェヒナーが、ある時期自分自身の生の拠り所としていたことなのだろうと、私は思います。

 そして同様に、「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」を書いた時の賢治も、トシが「直に其處に在る」と、確かに感じていたのだろうと思います。