ナビクナビアリナリ 赤き幡もちて…

 緊急事態宣言が解除されたとは言え、まだ恐る恐る暮らすような日々が続く、今日この頃です。
アマビエを用いた厚生労働省によるロゴ たとえ科学が発達した現代でも、人間にコントロール困難な今回のコロナ禍に際しては、厚生労働省でさえ右のロゴのように、アマビエなどという呪術的魔除けを用いたりしていますが、近代医学が普及する以前には、こういう超自然的な力に頼ろうとする気持ちは、もっと顕著だったようです。
 民俗学者の畑中章宏さんの「感染症と赤のフォークロア」によれば、古来日本では「赤い色」に疫病の退散や予防の力があると信じられていて、様々な形で赤い物品を使用していたのだということです。

日本の各地で、子どもが痘瘡に罹ったとき、部屋に赤い幔幕まんまくを張り、身の回りのものいっさいを赤色にした。肌着は紅紬・紅木綿でつくり、12日間取り替えることを禁じた。疱瘡に罹ったものだけが赤色を着るのではなく、看病人も赤い衣類を用いた。(畑中章宏「感染症と赤のフォークロア―民俗学者 畑中章宏の語る「疫病芸術論」の試み」より)

 疫病にかかった子供の枕元には、回復を祈って赤紙で作った人形や赤い旗を並べたりもしたということですが、これに関連して賢治の作品で思い浮かぶのは、文語詩「祭日〔二〕」です。

   祭日〔二〕

アナロナビクナビ 睡たく桐咲きて
峡に瘧のやまひつたはる

ナビクナビアリナリ 赤き幡もちて
草の峠を越ゆる母たち

ナリトナリアナロ 御堂のうすあかり
毘沙門像に味噌たてまつる

アナロナビクナビ 踏まるゝ天の邪鬼
四方につゝどり鳴きどよむなり

 この詩の舞台は、6行目に「毘沙門像」とあるように、花巻市の中心部から10kmほど東の北上山地の山あいにある「成島毘沙門堂」で、ここにある高さ4.7mという日本最大の兜跋毘沙門天像が、昔から地域の人々の崇敬を集めているのです。とりわけこの毘沙門様の面白いところは、そのおみ足に「味噌」を塗ると願いが叶うと言われているところで、ここに「毘沙門像に味噌たてまつる」と書かれているのが、それを指します。

 さて、この「祭日〔二)」の主人公は、4行目に「草の峠を越ゆる母たち」とあるように、近隣の村からやって来て毘沙門様に祈りを捧げようとしている母親たちです。なぜ母たちが参詣に集まっているかというと、2行目に「峡に瘧のやまひつたはる」とあるように、猿ヶ石川に沿ったこの谷間に、何かの疫病が流行していたからのようです。
 「おこり」という難しい字は、高い熱が間欠的に出るような流行り病のことで、典型的にはマラリアなどを指すようですが、古くは子供が急に熱を出す「わらわやみ」全般も含んでいたとのことです。

 そして、ここでやっと最初の畑中章宏氏のお話とつながるのですが、詩の3行目に出てくる「赤き幡もちて」に、おそらくこの谷間の村に出現した疫病への、「魔除け」の意味が込められているのでしょう。この岩手県の山奥でも、感染症にまつわる「赤のフォークロア」は、ちゃんと生きていたようなのです。
 附近の村々から毘沙門様のお祭りに参集する母親たちは、何とかして子供の病気が治るように、あるいは子供が病気にかからないようにと、切に祈る思いで、手に手に赤い幡を持って、はるばる峠を越えて来たのだと思われます。

 この作品が、具体的にいつの出来事を描いているのか考えてみると、その先駆形である口語詩「」(「春と修羅 第二集」)には「一九二四、五、二三、」の日付がついていることから、一応1924年5月のことと推測されます。この頃、岩手県でどんな疫病が流行っていたのかはちょっとわかりませんが、思うにこの年は、あの人類最大のパンデミックと言うべき「スペイン風邪」が流行した1918~1920年から、まだ4~5年しか経っていません。1918年11月におけるスペイン風邪による10万人あたり死亡者数この時のスペイン風邪による日本国内の感染者数は2380万人、死者は39万人ということで、現在のコロナ禍と比べても途方もなく大きな災厄でしたから、これはまだその記憶も生々しかった頃の情景です。
 ちなみに、今回の新型コロナウイルスに関しては、岩手県はまだ今のところ感染者ゼロという偉業を継続中ですが、100年前のスペイン風邪の際には、かなり感染が深刻化した時期もあったようです。右の図は、東京都健康安全研究センターによる「日本におけるスペインかぜの精密分析」という論文から引用したものですが、1918年11月において、流行はまだ西日本が中心でしたが、東日本で人口10万人あたり死亡者数が最も多かったのは、図でオレンジ色になっている岩手県だったのです。

 さて、文語詩「祭日〔二)」を読む者にとって最も印象的なのは、「アナロナビクナビ…」などと繰り返し現れる、不思議な呪文です。何度も読んでいると、ぐるぐると目が回りそうにもなってきます。
 これは、『法華経』の「陀羅尼品 第二十六」に記されている、毘沙門天王の陀羅尼です。賢治も所有していた島地大等篇『漢和対照 妙法蓮華経』では、次のように書かれています。

爾の時に吡沙門天王びしやもんでんわう護世者、佛にまをしてまをさく、

世尊、我亦衆生を愍念し、此の法師を擁護せんが為の故に、是の陀羅尼を説かん。

即ちしゆを説きてまをさく、

阿棃あり 那棃なり 菟那棃となり 阿那盧あなろ 那覆なび 拘那履くなび
世尊、是の神呪を以つて法師を擁護せん。我亦自ら當に、是の経を持たん者を擁護して、百由旬の内に、諸の衰患無からしむべし。

 すなわちこれは、法華経の護持者に「諸の衰患無からしむ=様々な病気による衰えやわずらいをなくす」ために、毘沙門天が自ら唱えた「神呪」なのです。
 毘沙門天への参詣にしても、「赤き幡」にしても、この呪文にしても、人間の力を超えた災厄からの救いを、切実に求める人々の願いの表れです。賢治は、自らも晩年の重い病床にあって、イーハトーブの子供たちの健康を祈りつつ、ここに陀羅尼を記したのでしょう。

 作品の舞台である成島毘沙門堂には、この賢治の文語詩を刻んだ「祭日〔二〕」詩碑が建てられており、私もこれまで何度か訪ねました。
 ところで、ほんらい毘沙門天とは、梵名ヴァイシュラヴァナというインドの神様で、後に仏教に取り入れられたものですが、今この毘沙門堂がある場所はお寺ではなくて、「三熊野神社」という神社の境内になっています。おそらくここは、明治の神仏分離までは神仏習合の信仰の場所だったと思われ、「三熊野」とは「熊野三山」すなわち熊野本宮・新宮・那智を表すことから、修験道(山伏)の一派に属していたのでしょう。歴史的に東北地方の修験道は、ほとんどが熊野の系列だったのです。

 最後に、賢治のこの「祭日〔二)」に千原英喜さんが作曲した歌曲を、私が VOCALOID 化した演奏を下に貼っておきます。記事の初めの方に載せた詩テキストを見ながら、お聴き下さい。終わり近くの「四方につゝどり鳴きどよむ」というところから最後までは、実際のツツドリの声(「ポポッ ポポッ」と低く鳴き交わす声)を入れてあるのが趣向です。