「オホーツク挽歌」の後半で、賢治は樺太の栄浜の海岸にたたずみ、いつまでも死んだ妹のことばかり考え苦しみつづける自分を責めています。
やうやく乾いたばかりのこまかな砂が
この十字架の刻みのなかをながれ
いまはもうどんどん流れてゐる
海がこんなに青いのに
わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
悼んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ
(Casual observer! Superficial traveler!)
最後の行の'Casual observer! Superficial traveler!'という英語は、たとえば『定本 宮澤賢治語彙辞典』では「いいかげんな観察者! 浅薄な旅人よ!」と訳されていて、迷いにとらわれつづけている己れへの自嘲と解されます。
ちなみに、この前の作品である「青森挽歌」には、'O du eiliger Geselle, Eile doch nicht von der Stelle!'というドイツ語が不意に出てくるのですが、これは'Des Wassers Rundreise'という作者未詳のドイツの詩の引用であることがわかっています(「水めぐりの歌」参照)。
ならばこの'Casual observer! Superficial traveler!'も、ひょっとして何かの出典があるのではないかとふと思い、ネットで検索してみたところ、一つの小説に行き当たりました。
チャールズ・ディケンズ(1812-1870)の長篇『ピクウィック・クラブ』が、それです。
『ピクウィック・クラブ』の全文は、「プロジェクト・グーテンベルグ」の中の「THE PICKWICK PAPERS: HTML版」で読むことができますが、この小説の第1章に'casual obsever'という語が、そして第2章に'superficial traveller'という語が出てくるのです。
それぞれ、近傍の文脈とともに抜き出すと、下記のようになっています。日本語訳は、ちくま文庫版の『ピクウィック・クラブ』(北川悌二訳)からの引用です(下線は引用者)。
A casual observer, adds the secretary, to whose notes we are indebted for the following account―a casual observer might possibly have remarked nothing extraordinary in the bald head, and circular spectacles, which were intently turned towards his (the secretary's) face, during the reading of the above resolutions:
〔日本語訳〕
以下の話は秘書の憶え書きによるものだが、彼の言葉によれば、たまたまゆきずりの部外者でも、上記決議が読会にかけられているとき、彼(秘書)の顔に向けられた熱心な禿げ頭、丸い眼鏡になにも異常なものを認めなかったことだろう。A superficial traveller might object to the dirt, which is their leading characteristic; but to those who view it as an indication of traffic and commercial prosperity, it is truly gratifying.
〔日本語訳〕
皮相的な旅行者は、これらの町の主たる特徴になっている泥濘に異議をとなえるかもしれない。しかし、それを交通と商業の繁栄の表示と見ている人たちにとって、それはじつによろこばしいものになっている。
ピクウィック・クラブ〈上〉 (ちくま文庫) チャールズ ディケンズ (著), 北川 悌二 (翻訳) 筑摩書房 (1990/02) Amazonで詳しく見る |
ちなみに賢治は、'traveler'と'l'の字は1つで綴っていますが、上の『ピクウィック・クラブ』原本のテキストでは'traveller'と2つになっており、これはイギリス英語の特徴です。1870年にアメリカで刊行された版では、下画像のように'traveler'となっています。(下画像は「LIBRARY OF CONGRESS」より)
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さてここで問題は、賢治が「オホーツク挽歌」に記した'Casual observer! Superficial traveler!'が、このディケンズの小説を下敷きにしたものだったのか、それともこれは偶然の一致にすぎないのか、ということです。
ディケンズのテキストにおいて、この2語は一緒に出てくるわけではなく、57章まである長篇小説の中で、一方は第1章に、もう一方は第2章に登場します。日本語訳で言えば、それぞれ上巻の12頁と36頁です。両者の隔たりはかなりあり、また意味的にもこの2つは関連して扱われているわけではありません。
また、'casual'も'observer'も'superficial'も'traveler'も、英語で特に珍しい単語ではなく、一般的によく使われるものなので、長篇小説の中でこれらが「たまたま」組み合わされて一緒に現れるということは、十分ありそうにも思えます。
そこで、これらの語句がどのくらい偶然に一緒に用いられているかを調べるために、Googleで対象言語を英語に限定して、"casual observer"+"superficial traveler"で検索してみました。すると、両者を同時に含むものとして表示された23のウェブページのうち、賢治の「オホーツク挽歌」の英訳あるいはディケンズの『ピクウィック・クラブ』関係を除くと、次の5つのページが残りました。
各ページをブラウザのページ内検索で調べていただいたらわかるように、これらのテキストにはいずれも'casual obsever'および'superficial traveler'という語が含まれていますが、賢治がこれらを参照していたとは到底考えられないことから、この5つは「偶然の一致」と考えておくのが妥当でしょう。
そこでこの結果をどう評価すべきかということですが、私としてはこれらの単語をすべて含むウェブページが、23しかヒットしなかったというのが、まず何より意外な結果でした。このディケンズのように、古典的な名作は今やどんどんデジタル化されネット上に大量に公開されていますし、そして現在もブログ等で厖大な英語のテキストがネットにはあふれているわけですから、もっと数え切れないほどのページがヒットするのではないかと、私自身は予想していたのです。
さらにその内容を見ると、『ピクウィック・クラブ』関係で重複しているページが多数ありましたから、結局'casual obsever' と'superficial traveler'を同時に含む文書としては、このディケンズの小説を含めて、たった6つしか存在しなかったのです。
つまり、これらの語句が「偶然の一致」で一緒に出現する確率は、相当に低いようなのです。
となると、日本の詩人が何も知らずたまたま作品の中に書きつけた英語が、ディケンズの小説の中の語句に一致するという「偶然」も、それほどよくあることではなさそうな気がしてきます。
すなわち、「オホーツク挽歌」に記されたこの英語の語句は、たんなる偶然ではなくて、ディケンズの『ピクウィック・クラブ』に由来しているという可能性が、なきにしもあらずかもしれません。2つの語句は、小説の第1章と第2章という最初の方に出てきますから、もしも賢治がこれを原書で読んでいたら、目にしやすい場所にあったとも言えます。
※
こういう想定があながち荒唐無稽とも言えないのは、賢治が生前に所蔵していた書籍の中に、Charles Dickensの"Oliver Twist"の原書が、含まれているからです(『新校本全集』第16巻(下)補遺・伝記資料篇p.253「宮沢賢治蔵書目録」)。
『オリバー・ツイスト』は、いたいけない孤児が様々な苦難を乗りこえて成長していく物語ですが、これは作者自身の生い立ちにも重なるものです。チャールズ・ディケンズは中産階級の8人兄弟の第2子として生まれ、幸せな幼年期を送っていましたが、父親が破産して「債務者監獄」に収監されてしまい、12歳にして1人で靴墨工場で働くことになります。この時代に味わった辛酸は、ディケンズにとって後々までトラウマになっていたようですが、これはまるで、父が監獄に入っているのではという不安を抱えつつ、活版所で働いていた少年ジョバンニを連想させるものです。また、孤児オリバー・ツイストが様々な仕事を経験しながら成長していく様子は、やはり孤児だったグスコーブドリにも通ずるものがあります。
賢治が小学生の頃に、担任の八木英三教諭に『未だ見ぬ親』(エクトール・マロ作『家なき子』の翻案)を読み聞かせてもらって陶然としていたという逸話がありますが、このような「孤児もの」は、彼の好きな物語パターンの一つで、それが"Oliver Twist"の原書購入の動機としてあったのかもしれません。
ということで今回は、偶然なのか関係があるのかわかならいものの、もしも関係があったら面白いな、という話でした。
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