「雨ニモマケズ」詩碑

1.テキスト

【中央碑】

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サ
ニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ
瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米
四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコト
ヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシ
ワカリ ソシテワスレズ  宮澤 賢治

【左碑】

 
                 岡本彌太
おたっしゃでゐて下さい

そんな風にしか云えないことばが
さくらの花のちる道の
親しい人たちと私との間にあった
そのことばに
ありあまる人の世の大きな夕日や
           涙がわいてきた

私はいまその日の深閑と照る
さくらの花のちる岐路に立ってゐる

おたっしゃでゐて下さい
私はその路端のさくらの花に
             話しかける
さくらは
日の光に美しくそよいでゐる

【右碑】

山靈賛歌
     西村和三郎
伐りゆくほどにゆくほどに
秘めし山霊の相にして
自からなるマンダラの
たからの苑ぞあらわるる
  とわの園生を開くべく
  いのち傾け老いゆかん
汗みどろなる肩よせて
石にいこいて語りしは
夢みるごとくちかいしは
そも現し世のことならじ

2.出典

雨ニモマケズ」(補遺詩篇 II)より その他

3.建立/除幕日

2019年(令和1年)7月15日 建立/除幕

4.所在地

高知県土佐清水市松尾975-112 足摺牧場

5.碑について

 2019年7月、太平洋を見下ろす足摺岬の高原に、3基の詩碑が並んで建てられました。上写真のように、中央の背の高いのが宮澤賢治の「雨ニモマケズ」詩碑、向かって左側が岡本弥太の「櫻」詩碑、右側が西村和三郎の「山靈賛歌」詩碑です。
 碑の建立者は、その西村和三郎の次男で、現在はしみず幼稚園の園長をしておられる、西村光一郎さんです。

 さて、この3人の詩人の間に、いったいどんな縁があったのかということですが、まず左側の碑の岡本弥太については、鈴木健司氏の「詩集『春と修羅』の同時代的受容」(蒼丘書林『宮沢賢治という現象』所収)に、次のように紹介されています。

 岡本弥太は、全国的にみれば一部の詩人や研究者にのみその名を知られる存在かもしれない。だが、土佐の地において弥太は「南海の賢治」と称される詩人で、郷土の生んだ最も著名な詩人であり、弥太祭や弥太賞といった催しも行われている。弥太は明治三二年一月、高知県の岸本村(現、香我美町岸本)に生まれた。賢治が明治二十九年八月生まれであるから三歳年下、学年としては二級下にあたる。弥太は高知市立商業学校を卒業、その後一時神戸に職を得るが、二三歳の時郷里に戻ってからは終生土佐の地を離れることなく、二〇年にわたり小学校教師としてその職を尽くし、昭和一七年一二月、結核によって満四三歳の生涯を閉じた。

 弥太の詩人としての活動は、25歳からのいくつかの同人誌発行の後、全国的な詩誌である「詩神」や「日本詩壇」への投稿・掲載とともに、生前の唯一の詩集『瀧』を、昭和7年(34歳)に刊行しています。
 「南海の賢治」という呼称は、その作風から付けられたものでしょうが、生前の賢治との直接の面識はありませんでした。しかし弥太は、賢治が『春と修羅』を出版した直後からずっとその作品に注目し、高知の古本屋で埃をかぶった『春と修羅』を見つけた際には、「奪ひとるやうに」購入したのです。下記は、鈴木氏の上掲論文から、弥太が「イーハトーヴォ」創刊号(昭和14年)に寄せた、「春と修羅の我が思い出」という文章の一節です。

 私が故人の名前を知ったのは例の詩話会から出てゐた詩誌日本詩人誌上、多分大正十三年ではなかつたかと思ひます。春と修羅のあの薊の押絵のある麻表紙の詩集の奥付が大正十三年四月二十日発行となつてゐますから――あの詩集の紹介者は佐藤惣之助氏でなかつたかと記憶してゐるが、或は 川路柳虹氏だつたかも知れない。豊富絢爛な未来派的官覚異装を讃えた詩評で、この東北の天才を評するに決して不当でなかつたやうに思ひますが、今のやうな広汎深刻な人性的意味の探求では決してなく、自分にはハルトシユラといふおどろくべき野生のちからを持つた Dawn man 的意味の現出に官覚的驚異を感ずるの外はなかつたやうに印象されてゐます。
〔中略〕
 私はこの人の詩集を出版後三四年たつてから私の辺鄙な土地の町の古本屋の埃のなかから偶然拾ひ出しました。貳円四拾銭の定価のものを符牒どほりの六拾五銭で、奪ひとるやうに買ひ(多分僕が買はなかつたらこの詩集は何年も宮沢さんの死ぬ時まで、その通りだつたのかも知れません。この辺鄙でその真価を知る人は寡いのですから。)その晩徹宵でこの詩集のあの重い手ざはりと活字に吸ひとられて仕舞ひました。松の針と無声慟哭のところへ来てとうとう涙を滾して仕舞ひました。

 ということで、花巻から遠く離れた南国の地に、ひそかに賢治に共鳴する同時代の詩人がいたというわけです。その作風には、賢治を思わせるような斬新な語法も見られたということですが、上の詩碑に刻まれている「櫻」は、平易で静かな、そして哀しい作品です。教師として、教え子の出征を見送った情景を回想するものでしょうか。

 さて、向かって右側の詩碑の西村和三郎は、この岡本弥太を通じて賢治の作品を知り、やはり深く敬愛するようになったということです。
 和三郎は、1913年(大正2年)に高知県土佐清水市に生まれ、高知師範学校(現高知大学)を卒業後、26年間小学校の教師をしながら詩作に励みました。教師を退いてからは、高知県議会議員を一期務め、1967年(昭和40年)に足摺岬の奥の未開の地を購入して、牧場を開きます。山中にて、ランプの灯りで清貧の生活を送り、1996年に亡くなりました。
 詩人としては、郷土の先輩である岡本弥太に師事し、生前に詩集『五月狂想』『修羅の恋歌』を刊行しています。
 この間、故・宮澤賢治に対する敬慕の念を強くした和三郎氏は、1940年(昭和15年)にはるばる花巻を訪ね、この時に宮澤清六氏や菊池暁輝氏と会ったということで、菊池氏と一緒に撮った写真も残っています。この縁で、翌年に清六氏から賢治遺言の『国譯 妙法蓮華経』を贈られて、以後は毎日法華経の勤行を欠かさず、土佐清水の町を団扇太鼓を叩きながら唱題して歩いた時期もあったということです。

 下の写真は、和三郎氏が所蔵していた『国譯 妙法蓮華経』です。和三郎氏はこれを「お飾り」などにはせずに、毎日座右に置いて読経に使っていましたので、特に「如来寿量品」の部分などは手垢にまみれ、後にこれを見た清六氏は、「ここまで読み込まれた版は見たことがない」と言ったということです。

 さて、詩碑に刻まれている「山靈賛歌」は、和三郎氏が足摺の山中を開墾して「足摺牧場」を作っていた頃の一コマかと思われます。「道を求めるのにひたむきで一途だった」という人で、土佐清水市の市街地から、当時はまだ電気も来ていない山の中に移り住んだわけですから、ご家族にとっては大変な面もあったでしょうが、子どもたちにはよく賢治の童話を読んで聞かせてくれたということです。

 おそらく1980年頃のことかと思われますが、宮澤清六氏が講演のために、当時はまだ高校生だった和樹氏を連れて、高知を訪ねられたことがあったそうです。この時に、和三郎氏とともに二人に会った次男の光一郎さんは、「いつか足摺の地に賢治の詩碑を建てたい」という願いを、清六氏と和樹さんに語られました。

 そして、今回やっとその西村光一郎氏の長年の念願がかなって、宮沢賢治・岡本弥太・西村和三郎という3人の詩碑が、和三郎の開いた「足摺牧場」の一角に、建立されたわけです。賢治の「雨ニモマケズ」は、その前半部が刻まれ、花巻の羅須地人協会跡にある元祖賢治詩碑に後半部が刻まれているのと合わせて、これで「一対」になるのだと、光一郎さんは話して下さいました。
 2019年7月15日に行われた除幕式には、はるばる花巻から、宮沢和樹氏と碑文の揮毫をした宮沢やよいさんご夫婦も臨席し、総勢150名もが集まる盛会となりました。式では、西村光一郎さんが園長を務める「しみず幼稚園」の園児らによる「ポランの広場」の合唱や、「雨ニモマケズ」の朗読や、餅まきもありました。
 宮沢和樹さんは挨拶の中で、この足摺牧場の風景を評して、「賢治が愛した種山ヶ原に似ている」と述べられたということですが、緑の草原に牛や馬がくつろいでいる様子はまさにそのとおりですし、その草原から遠くに帯のように青く見えるのは、種山ヶ原の場合には「海だべがど、おら、おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい」なのに対して、こちらはほんとうの海、黒潮の流れる太平洋が広がっているのです。

 下の写真は、詩碑の横に建てられている、「詩碑建立趣意書」です。西村和三郎氏について書かれたその内容を、下に写しておきます。

世界がぜんたい幸福にならなければママ個人の幸福はあり得ない
                                    (宮澤賢治)

  宮澤賢治詩碑建立趣意書

土佐南端、三崎村小学校の西村和三郎は、四夜の旅をもの
ともせず、澄明なるこのイーハートーブの草原に精力の愉しい
根源を索て飛来し、ここで多くの法友と人生を語い教育
を論じ新たな歓喜を得て帰った。
昭和十五年五月廿一日      宮沢賢治の会発行
            イーハトーブ七号より
                 盛岡市仙北町
                 発行責任者 菊池暁輝
                        

宮澤賢治研究・その生涯、理想への実践は、父 西村和三郎の一生を
通しての悲願でありました。教師・県議を止めてからの山中独居、
山小屋での清貧の中での日々。荒れ果てた森林を人力のみで開拓し
た牧場づくり。
古代縄文時代の人々が住んだと言われるこの星降る郷、「巨石群・
唐人駄馬」を選んだことも賢治を敬慕し続けた生涯とは無縁
とは思えません。南海の賢治といわれる岡本弥太との師弟関係もまた詩
人の必然の道と言わなければなりません。とどまることを知らない物質
文明・人間不信・自然破壊・おしよせる災害現代、今こそ賢治の
思想・文学・理想が求められる時であると信じます。

宮澤和樹氏・岡本龍太氏・西村亮氏の賛同と全面的協力、その上
宮澤やよい先生・高松紅真先生・柴山抱海先生の揮毫を得ること
が出来ました。深く感謝いあたします。足摺牧場内に詩碑建立が実現
したこと、私共の望外の喜びとするところです。

令和元年七月十五日         和三郎遺族  西村光一郎
                            美和子
                         西村 亮
                            博子
                         西村 利根
                         景山 早穂

詩は私の内部の支柱であり信仰である
             だから生活と即ち詩業である。
               (和三郎 修羅の恋歌より)