「眠らう眠らうとあせりながら」詩碑アップ

 「石碑の部屋」に、「眠らう眠らうとあせりながら」詩碑をアップしました。
 これは、岩手県滝沢市の大沢坂峠の頂上に、去年の10月に設置された碑で、私は先月のお盆の頃に見に行ってまいりました。

「眠らう眠らうとあせりながら」詩碑

 碑に刻まれているテキストは、「疾中」の中の「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」で、この最後の行に「大沢坂峠」が登場していることから、この峠に置かれたものです。なお、「大沢坂」は「おさざか」と読みます。

眠らう眠らうとあせりながら
つめたい汗と熱のまゝ
時計は四時をさしてゐる

わたくしはひとごとのやうに
きのふの四時のわたくしを羨む
あゝあのころは
わたくしは汗も痛みも忘れ
二十の軽い心躯にかへり
セピヤいろした木立を縫って
きれいな初冬の空気のなかを
石切たちの一むれと
大沢坂峠をのぼってゐた

 詩には、1928年(昭和3年)夏から病床に就いてしまった賢治の、闘病の一コマが描かれています。毎日毎日が苦しくて、何もできずただもう寝ているだけの時間だったでしょうが、それでも今の状態と比べて1日前の自分を羨んだり、20歳の頃の清々しい峠道を夢に見たり、賢治にとっては病の床の中でも、様々な情景が展開します。
 思えば20歳の頃の賢治は、盛岡高等農林学校の2年生で、7月にグループ実習課題として「盛岡附近地質調査」を級友たちと行ったのですが、賢治たちが担当したのが、この大沢坂峠も含む盛岡から北西の地域でした。
 「歌稿〔B〕」の「大正五年七月」の項には、「湯船沢」、「石ヶ森」、「沼森」、「新網張」、「茨島野」などこの地質調査の際の体験を詠んだ連作がありますが、その中にやはり「大沢坂峠」が登場しています。

        ※ 大沢オサ坂峠
341   大沢坂の峠は木木も見えわかで
     西のなまこの雲にうかびぬ。


341a342 大沢坂の
     峠は木々も
     やゝに見えて
     鈍き火雲の
     縞に泛べり

        ※ 同 まひる。
342   ふとそらの
     しろきひたひにひらめきて
     青筋すぎぬ
     大沢坂峠。

 「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」の中で夢に見ているのは、「きれいな初冬の空気のなか」で大沢坂峠を登る場面ですから、この時の地質調査と季節は合いませんが、『宮澤賢治 岩手山麓を行く』(イーハトーヴ団栗団企画)における照井一明氏は、賢治はその後もう一度初冬に調査のためにこのあたりを訪れ、その時に作られたのが「歌稿」の「大正五年十月より」の項にある次の短歌群ではないかと推測しておられます。

418   霜ばしら
     砕けて落つるいは崖は
     陰気至極の Liparitic tuff

        ※
419   凍りたる
     凝灰岩の岩崖に
     その岩崖に
     そつと近より。

         ※
420   凍りたる凝灰岩の岩崖を
     踊りめぐれる
     影法師なり。

 照井氏の推測では、賢治は夏の調査だけでは確認しきれなかった大沢坂峠あたりの丘陵の火山岩の基盤となる地層を調べておきたくて、あらためてこの年の10月以降の初冬に、この場所を訪ねたのではないかということで、これは説得力のある説だと思います。
 そうであれば、詩「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」において賢治が夢で見ているのは、この初冬の再訪の際の記憶だということになります。
 ちなみに下図は、この時の調査結果を集約した「盛岡附近地質図」です(『新校本全集』第十四巻より)。

盛岡附近地質図

 ところで、「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」の最後から2行目には、「石切たちの一むれと…」とありますので、このあたりに石切場があったのだろうかと気になったのですが、上図の右端の方を拡大すると、確かに「石切場」という記載が見えます。

盛岡附近地質図(拡大)

 上の拡大図で、上の方の縦長の赤い楕円で囲んだところに、「石切場」とあるのです。さらに、その間にある横長の赤楕円で囲んだところには「石ヶ森」という山名が記されているのですが、そもそもこの「石ヶ森」という名前自体が、ここが石を産する山であることから来ているのでしょう。大沢坂峠(上図の「●大沢坂峠」は引用者記入)よりは少し北になりますが、それでも石切り場で働く人々がこの峠を往来することは、十分にありえたでしょう。
 さらに、この地質調査の報告書である「盛岡附近地質調査報文」には、次のような記載があります。

      (二)第三紀層
本層図幅の西隅に分布し、主として凝灰質の岩石より成る、本層を構成する岩石中重要なるものは流紋質凝灰岩及び安山岩質凝灰岩並びに半熔頁岩及び角礫岩とす。
○流紋質凝灰岩
稍脆弱にして触るれば粗鬆の感を生じ灰白色にして灰状の外観を有し実質中に細き石英の粒子を散布す図幅の西北鬼越山以北に稍広く分布し金沢、影添於て好露出を見る。多くは流紋岩の砕屑を混淆し又往々硅板岩粘板岩の砕片を雑ゆ、本岩中に散布せる石英粒の大部分が錐形式の結晶より成れるは特に注意すべきの価値あるとす、採掘して竈材として賞用せらる(滝沢石)

 すなわち、この図の「西隅」で黄色に塗られている「第三紀層」の「流紋質凝灰岩(正しくは「流紋岩(質)凝灰岩)」は、「採掘して竈材として賞用せらる(滝沢石)」ということですから、これが「石切り」の対象だったのだろうと推測されます。
 「盛岡附近地質調査報文」は、全体としてはグループの「共同執筆」という形になっていて、賢治がどの部分を書いたのかはわからないのですが、上に引用した部分は賢治が担当した地域でもあり、また現在一般には「鬼古里山」と書かれる山を「鬼越山」と表記しているところも、賢治の特徴に一致すると思います。

 盛岡方面から大沢坂峠に行くには、JR田沢湖線で盛岡から一駅目の「大釜」で降りて、県道16号線を北に歩き、「←大沢坂峠」という標識も出ているJAの角から西に曲がり、熊野神社の脇を通って山道に入っていきます。大釜駅から峠頂上の詩碑の場所まで、歩いて1時間あまりという感じでした。

大沢坂峠頂上の標識と詩碑