「眠らう眠らうとあせりながら」詩碑
1.テキスト
眠らう眠らうとあせりながら
つめたい汗と熱のまゝ
時計は四時をさしてゐる
わたくしはひとごとのやうに
きのふの四時のわたくしを羨む
あゝあのころは
わたくしは汗も痛みも忘れ
二十の軽い心躯にかへり
セピヤいろした木立を縫って
きれいな初冬の空気のなかを
石切たちの一むれと
大沢坂峠をのぼってゐた
宮沢賢治
昭和3年8月
2.出典
「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」(「疾中」)
3.建立/除幕日
2017年(平成29年)10月13日 建立
4.所在地
岩手県滝沢市大沢小太郎山 大沢坂峠頂上
5.碑について
岩手山の南麓、小岩井農場のある平原と、盛岡市側の北上平野との間には、300~400mの山々が連なる丘陵地帯があります。
ここに居並ぶ山の名前を見ると、北から茄子焼山、黒坂森、沼森、鬼古里山(鬼越山)、燧堀山…と、賢治の作品世界がパノラマのように広がる感じになります。そして、これらの山の間を縫って、東の盛岡側と西の姥屋敷などの集落を結ぶ峠道が何本か通っていて、鬼越坂、大沢坂峠、篠木坂峠などがあります。
賢治の時代の頃までは、これらの峠道は人々にとって重要な生活道でしたが、近年は人通りも絶えて道がかなり荒れていたところ、地元の団体が賢治との縁を顕彰して、標識等を設置するとともに道をきれいに整備しました。そして、一通りの完成を見た2017年秋に、この「眠らう眠らうとあせりながら」詩碑が設置されたのです。
※
賢治が、詩「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」を書いたのは、1928年(昭和3年)から結核のために病床に就いていた時期で、この間に書かれた詩を集めた「疾中」というファイルに収められていました。
作品の中で、賢治は熱と痛みで眠ることもできず、その前日には夢の中で自分は20歳に戻って、大沢坂峠の清々しい空気の中を歩いていたことを思い出します。
賢治の20歳というと、盛岡高等農林学校2年で7月に、グループ課題実習として「盛岡附近地質調査」を行ったことが思い当たります。これは、3人ずつの4班で盛岡周辺の地質を調査して地質図にまとめたもので、賢治たちのB班は盛岡の北西郊外、すなわち大沢坂峠等の岩手山東南麓の丘陵地帯を含む地域でした。(下図が「盛岡附近地質調査報文」に付けられた「盛岡附近地質図」)
3人で担当した調査でしたが、7月下旬になって夏休みに入ると、賢治以外のメンバーは帰省してしまって賢治だけが残り、一人で調査を続行したようです。
この時の様子が、「歌稿」の「大正五年七月」という節に収められています。
333 夏きたりて
人みな去りし寄宿舎を
めぐる青木に
あめそゝぎつゝ。
※ 湯船沢
334 七月の森のしづまを
月いろの
わくらばみちにみだれふりしく。
※
335 うちくらみ
梢すかせばそらのいろ
たゞならずして
ふれるわくらば。
※ 石ヶ森
336 こゝに立ちて誰か惑はん
これはこれ岩頸なせる
※ 沼森
337 この丘の
いかりはわれも知りたれど
さあらぬさまにて 草穂つみ行く。
※ 同
338 丘丘が
つどひてなせるこの原に
なんぞさびしき
沼森の黒
※ 新網張
339 まどろみに
ふっと入りくる丘のいろ
海のごとくにさびしきもあり。
※
340 しろがねの夜あけの雲は
なみよりも
なほたよりなき野を被ひけり。
※
341 大沢坂の峠は木木も見えわかで
西のなまこの雲にうかびぬ。
341a 大沢坂の
峠は木々も
やゝに見えて
鈍き火雲の
縞に泛べり
※ 同 まひる。
342 ふとそらの
しろきひたひにひらめきて
青筋すぎぬ
大沢坂峠。
※ 茨島野
343 山の藍
そらのひゞわれ
草の穂と
数へきたらば泣かざらめやは。
おそらく賢治は、石ヶ森や沼森を調査した後、新網張温泉(新盛岡温泉)で1泊して、翌朝に大沢坂峠に向かったのでしょう。この時の大沢坂行きは7月で、「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」の「きれいな初冬の空気のなかを」という描写とは季節は合いませんが、『宮澤賢治 岩手山麓を行く』(イーハトーヴ団栗団企画)における照井一明氏は、賢治はその後もう一度初冬に調査のためにこのあたりを訪れ、その時に作られたのが「歌稿」の「大正五年十月より」の項にある次の短歌群ではないかと推測しておられます。
418 霜ばしら
砕けて落つる
陰気至極の Liparitic tuff
※
419 凍りたる
凝灰岩の岩崖に
その岩崖に
そつと近より。
※
420 凍りたる凝灰岩の岩崖を
踊りめぐれる
影法師なり。
照井氏の推測では、賢治は夏の調査だけでは確認しきれなかった大沢坂峠あたりの丘陵の火山岩の基盤となる地層を調べておきたくて、あらためてこの年の10月以降の初冬に、この場所を訪ねたのではないかということで、これは説得力のある説だと思います。
そうであれば、詩「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」において賢治が夢で見ているのは、この初冬の再訪の際の記憶だということになります。
いずれにせよ、このページの最初に掲げた地図のように、賢治の作品にしばしば登場する地名が、盛岡郊外の北西部に特に集中しているわけですが、その理由は、彼が高等農林2年の時にこの地域の地質調査をたまたま担当し、一人で歩きまわる経験を積んだということがあったのかもしれません。