もう先月のことになりますが、青森県の浅虫温泉に行ってきました。
この温泉から目と鼻の先の、陸奥湾に浮かぶ「湯の島」は、賢治が農学校の生徒たちを引率して北海道へ行った修学旅行の帰りに「〔つめたい海の水銀が〕」という作品で、東北本線の車窓から眺めて描いている場所です。「島祠」と題されていたその下書稿(二)においては、島のきれいな三角形の姿から「三稜島」と称されたり、「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という不思議な幻想の舞台ともされています。
4月の中旬には、湯の島にカタクリの花が咲く時期に合わせて「かたくり祭り」が行われ、この期間中には島に渡る船が出るということを知ったので、賢治が「珪化花園」とも呼んだこの島に行ってみようというのが、私の今回の浅虫温泉行きの目的でした。しかし当日になると、強風のためあいにく船は欠航になり、残念ながら目の前の島へ渡ることはできず、涙を呑みました。
渡航はかないませんでしたが、陸奥湾の海岸まで出て、湯の島をパノラマで撮影したのが、下写真です。画像下のスクロールバーを動かしていただくと、正面の「湯の島」も含めて、海岸の全景がご覧になれます。
さて、陸奥湾岸で上の写真を撮影すると、8kmほど南西の「青龍寺」というお寺にある、「青森大仏」を拝観しに行きました。
この大仏は、昭和59年に造立されたということで「昭和大仏」とも呼ばれます。青銅座像としては奈良や鎌倉の大仏よりも大きく日本一で、高さ21mあまりあります。
ご覧のように、大仏は屋外に鎮座しているのですが、お寺へタクシーで向かっていると、かなり遠くからも宝塔を戴いたその頭部がちらちら見えてきて、だんだんと大きさを実感することができます。
ところで私が、今回この大仏を見てみたいと思った理由は、これは私のまったく勝手な想定にすぎないのですが、青森の街の少し東に位置するその場所からして、これは「青森挽歌」の最後の場面で、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉が賢治の心に響いた時、彼が乗った列車がちょうど走っていたあたりなのではないかと、ふと思ったからです。
もちろん、ここに大仏ができたのは1984年、賢治が列車で通過したのは1923年ですから、はるか昔のことなのですが、列車が青森駅に到着する直前に、突如として賢治に訪れたこの「啓示」の圧倒的な重さの背後に、私はかねてから、青森の空に浮かぶような何か非常に巨大な如来的存在を、感じていたのです。
その後の賢治の死生観を決定づけ、「銀河鉄道の夜」にも結晶していくことになるこの「啓示」の場所に、60年も後になってのことですが、天に聳える大毘盧遮那仏が建立されることになったとは、何か不思議な縁を感じた次第です。
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