心象は異空間を写し、歴史は異時間を映す

 1925年12月20日付けの岩波茂雄あて書簡214aにおいて、賢治は前年に刊行した『春と修羅』に収めた「心象スケッチ」について、次のように説明しています。

わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。

 ここで当時の賢治が、何に対して「おかしな感じやう」をしていたのかというと、この文章によれば、それは「歴史やその論料」と、「われわれの感ずるそのほかの空間」という、二つの対象です。
 後者、すなわち「そのほかの空間」のことを、賢治は別の場所では「異空間」とも呼んでいます(思索メモ1「異空間の実在」ほか)。彼は、しばしば幻聴や幻視などの幻覚体験をすることがあり、その際に見聞きした体験内容は、「この世界」には実在しないものですが、賢治はそれを「そのほかの空間」=「異空間」に由来するものだと考えました。しかし、こういった幻覚はいつもあるわけではなく、ある時は見えても別の時には見えないものですし、またそんなものは全く見えないという人もあり、それは人間の認識の状態に依存した、はかなく「相対的」なものなのです。彼が、「そのほかの空間」について「おかしな感じやう」がすると述べたのは、こういう「空間認識の相対性」のことではないかと、私は推測します。

 他方、これに対して前者、すなわち「歴史やその論料」については、賢治はどう「おかしな感じやう」をしていたのでしょうか。こちらに関しては、『春と修羅』の「」が参考になると思います。

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

 ここに用いられている「論料データ」という独特の用語が、岩波茂雄あて書簡と共通していることも、両者の論旨が一連のものであることを示唆していると思います。ここでは、「歴史」というものは、ただ「われわれがかんじてゐるのに過ぎません」と述べられており、賢治がここで言いたかったのは、客観的で変わることのない「不磨の大典」のように「歴史」というものが存在するのではなく、それぞれの時代から見たそれぞれの歴史が、「因果の時空的制約のもとに」、存在するに過ぎないのだ、ということでしょう。「銀河鉄道の夜」初期形第三次稿で大きな帽子の人が言ったように、人間が考える「歴史」とは、時とともに変転していくものであり、所詮「相対的」なものなのです。

 すなわち、岩波茂雄あて書簡に述べられている賢治の「おかしな感じやう」の正体は、「時間認識=歴史の相対性」であり、「空間認識=心象の相対性」である、ということになります。
 さてここで、「われわれの感ずるそのほかの空間」のことを「異空間」と呼ぶのならば、「われわれの生きている今ではない、ほかの時間」のことを、「異時間」と呼んでみることもできるでしょう。そして、「異時間における出来事に関する認識の集成」が、いわゆる「歴史」に相当します。

 つまり、『春と修羅』の「」や、岩波茂雄あて書簡において賢治が述べているのは、「異空間および異時間に対する認識の相対性」と言い換えることもできるというわけです。

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

 この「」の結びの、「心象や時間それ自身の性質として…」という箇所は、アインシュタインの「四次元時空連続体」に基づくならば、「空間や時間それ自身の性質として…」と書いた方がより正確なように思えますし、またその認識の「様態」を指すのならば、上に見たように「心象や歴史それ自身の性質として…」と書く方が適当かとも思われます。
 ただ、この賢治の書き方からあらためてわかるのは、「心象」の持っている次元は、とりもなおさず我々の「空間」が有している三次元だ、ということですね。

 以上、まあ賢治にとっては、「心象」は異空間を写し、「歴史」は異時間を映す、ということだったのではないかと思います。